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使い回わしの読書感想文



 中学の恩師が流展にいらした。「私はこの先生には特別に目をかけてもらっていた。」と皆が思うような先生で今も活躍なさっている。何かあれば土曜日であろうと日曜日であろうと指導を熱心にしてくれる先生だった。ダメなことはダメ。生徒同士の噂にも敏感で何かあれば自分のことのように祝福してくれる。体が弱いのに、人一倍動き、気も常に使っている。身を粉にして働いているようにも見えるのだが、全くそれを感じさせないのだ。心理的にも、物理的にも人の痛み、喜びを受け入れ、導く人であった。

 先生は一人一人を見て生かすことが得意だったように思う。一人一人を特別に見ていた。生徒の特技を引き出す場を設けるのが上手だった。カナダの留学生の前で日本の文化の紹介をするということで和室で裏白の木のお生花をいける大きな場をいただいた。デモンストレーションを経験させてもらった14才の夏だった。枝を撓める度にでた嫌な汗を鮮明に覚えている。先生は特別な場を作ることもしたが、日常的に人を生かしていたのだから驚きだ。

 流展の会場でお互いの安否の確認が終わると、先生からすぐに、このテキストの文章を誉めていただいた。「君に文章の才能があったとは知らんかったわ。」とのことである。国語の先生に褒められたのではなく存在を褒めていただいたような言葉に感じた。元来文章を書くことが大の苦手であった。言いたい事がなかったということだろうか。夏休みの読書感想文は、中学一年生の時に祖父に書いてもらった。毎日読書感想文を書いたような人である。原稿用紙を奪われる形で本人は楽しそうに書いていた。その後、中学一年生に書いてもらった感想文を高校の卒業まで書き写し提出していた。6年間自分のしたいことに時間をつかえた有意義な夏休みを過ごしていた。

 中高時代に自分で書いた文章と言えば、その場で恩師の先生に言われ書かされた反省文ぐらいのことである。学生時代は運動と遊びが一番で勉強に割く時間なんてものはなかった。自分でも驚くが、今は読みたいだけの本を読み、毎日のように貯めたい言葉に出会い、保存して、このテキストの場で好きなことを言っている。毎月言いたいことが溢れ出てくるのだから不思議だ。今も変わらず、したくないことは適当に誤魔化しながらしたい事ができる環境を作っている。わがままなだけである。言い換えると生き生きとしているのだろう。

 読書感想文を使い回ししていたことを先生に告げた。「全く気づかへんかったわ。それも一つの才能やね。」とおっしゃった。

 いけばなにおいても型とはよくできたもので、型通りにいければ綺麗に見える。型通りに入っているのに植物が魅力的に見えない花は植物の魅力でなく型に心を奪われていることが大半だ。世の中のほとんどのいけばながそうであると思っている。魅力が見えない人に魅力の引き出し方を伝えられるはずがない。ある師範のお弟子さんが言っていた。「先生、お生花の型に当てはめる事ができたら、見た事もないような植物でもいける事ができるのでしょうか?」僕は、型から入るいけばなは植物の魅力を最大限に引き出すことはできないだろうと答えた。ただ書き写しただけの軽い読書感想文が頭に浮かんでいた。「先生は真面目で誠実ですね」と返事が返ってきたが、いけばなはかつての読書感想文ではない。

 理屈さえ把握すればどんな花でも生ける事ができる。これは、型の使い回しである。本当に好きだったのならば、その植物ごとの個別性を大事にし、引き出そうとするだろう。自分のお弟子さんにそんな事を教え始めて4年ほどたった。型はまだ教えていない。彼、彼女らは魅力を引き出そうと懸命だ。セオリー通りではない、驚くような方法で植物を魅せてくれる。最近ではお稽古をしていて私が楽しまされているような気がしている。

 型に当てはめて、要領よくされては困る。使い回しの読書感想文があると知った僕は、それを見つけた時に指導することができるだろうか。想いの込められた物とそうで無いものを見分るのは両方経験したからである。

 型に当てはめるだけのものは戦前、戦後に爆発的ないけばなの拡大が見られた時代には適していた。簡単にお花を生けられるようになり、お免状が求められていたからである。今、僕が人に伝えたいのは、花と向き合う楽しさ、花の魅力の引き出し方である。使いまわされた読書感想文ではない。今のところ僕のお弟子さんは何文字ぐらいだろうか。相当な文量を熱心に教場で書いている。

 生花と立花の古典に関しては花の魅力を充分に引き出せるようになってから型を習うのがその人の花をいけるための道だと今は考えている。

 料理の専門学校で副家元がいけばなの授業を担当している。いけばなの授業を楽しみにしてくれている人もあるが、なぜ料理以外の事をしなければいけないのだろう。と疑問を持つ人もあるようである。初回の授業で花に触れる前に持ち帰るよう伝えると、家に飾る場所がない、家まで遠いなど理由を探す。花に触れた後の表情は変わり、授業後、家の玄関に一輪だけ飾りたいです。トイレは可愛そうですかね?家までお花を持たせる方法は何かありますか?と質問攻めである。授業を重ねる度にそんな人が増えるのが楽しみだ。

 お弟子さん、生徒さんのあるがままの状態を受け入れ、そこから1人1人がそれぞれしたいことができるためのお手伝いをする。それは子供のいけばなでも、グループホームでのケアであっても、変わらない一つの僕の背骨である。

 多忙であろうに、疲労感を隠しながら先生は、最高の作り笑いをしてくれた。5分ほどしか話していなかったはずだが、その5分はゆったりとした時間でアルバムを見ているようだった。来て下さった事に対する感謝と、このタイミングで会えた事が今の自分を見つめ直すきっかけになりました。これからもしたい事を好き放題にやっていきます。ご来場くださりありがとうございました。お元気で。

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