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「言葉と自然」


 自分が思う花の楽しさを稽古で人に伝えるようになって3年くらい経った。
 あるお弟子さんが生けた菊の花を拝見した。やや前傾に直立した菊の葉が殆どむしり取られている。「葉を取るのが楽しくてつい取りすぎてしまいました。」と笑っている。綺麗な目だった。花の味わい方はそれぞれで、彼女は自分に素直だった。私の花の味わい方が拡張されたようにも思う。葉を取ることに罪悪感を感じる気持ちはもちろん大切だが、それは倫理を通して感じられる感情であり、葉を取る行為のみを考えると不快なものではない。

 私は主として、花の美しさと生命力を味わっているのかなと自分では思っている。個人的に近頃思うのは、情報で溢れる世界になってから、みんな頭で考えすぎているようにも見える。人が知っている範囲の事ならなんでも調べれば出てくる。情報を価値にすることは、自分の価値、本質を把握しておらず、自分が何をしているかわかっていないという事である。もったいなく感じる。情報自体に価値はない。家元が文阿弥花伝書をインターネットから閲覧しているのを見て感じた。なんていい時代なんだろう。知る環境はこれ以上なく整っている。情報をどう使うかである。

 知る環境が今に比べて不便だったに違いない室町時代。その時代の人達が真摯に花に向き合い、悩み、一つの答えとして記したものが花伝書であり、禁忌であった。室町の花伝書には禁忌が多いという。言葉の響きが悪い花は特に嫌われた。紫苑は祝儀の席では死に通じるところから禁花にされ、赤い花は引っ越しの際は火を想起するので禁花とされていたそうだ。花一つ一つに名前をつけ意味を考える。一つ一つの花と向き合っていたことがうかがえる。

「古代の呪術性のなごりともいえる禁忌の意識を取り去ったのが近世に生まれた生け花様式である。それは草木花が古代との血縁を失い、単なる花材になったということである。」

と川瀬敏朗は述べているが、ある部分では納得できるが、ある部分では再考の余地があると考えている。観念的に花と向き合い、真摯であることは立派なことであると個人的に考えている。その一方で、実踐的に身体を通じて真摯に向き合うことも大切であると感じるようになった。つまり私は真摯に花に向き合う姿勢が好きなのである。言語や意味を重視し、脳を使って考える観念的解釈と五感や身体を使って感じ、そのものの本質と向き合う実踐的な解釈があると考えている。

 室町の頃から花伝書などで決まり事を作ることは、言葉で論理的に解釈したもので、剝き出しの自然性や本質は言葉で伝えられるはずがない。なぜならば、言葉にした時、それは物事を定義し、観念的に解釈することになるからだ。花伝書で伝えたいことは決まり事そのものではない。決まり事として、本質を人に伝えるべく仕方なく言語化し、仕方なく論理で説明している。それは人に思いを伝える手段が言語だからである。言葉を使用せず思考することはできない。このジレンマにソクラテス以降の哲学者は苦しむことになる。

 葉をむしり取る楽しさは、身体的なものであり、また、原初的でもあると考えている。生花を生ける際に枝を撓めたりするのは確に楽しい。オランウータンは水平で頑丈な、身体を預けられる木を見つけて若い枝を集めた後、曲げて巣を楽しそうに作る。そんなものなんだろう。人と枝との付き合いの長さは思っている以上に長いものかもしれない。二足歩行の始まりにもいろいろな説があり、その中の一つに二足歩行は木の上で始まったというものがある。外敵が比較的少ない木の上での生活を始めた、僕らの先祖にあたるかもしれない生き物たちが木と花の中で生活していたということはm今私たちが花を見てなんだか感じる安心感とつながっているのかもしれない。

「物真似には似せないという位がある。物真似を究めその物にまことなりきってしまえば、もう似せようと思う心などない。こうなればただ見せ場を嗜むのみで、花が咲かないということがあろうか。」世阿弥の風姿花伝からの引用である。似せようと思う心は頭の中の解釈でしかない。そのさきに理屈でなく実踐的に本質と向き合うことで花を咲かすことができるのであるのではないだろうか。似せないという境地は面白そうだ。

 言語、論理と対極にある生命そのものの広がり自然のありのままの姿。言語、論理は人間の脳が世界を切り取り、論理を抽出して、都合よく構築した整った人工物であるから、自然そのものの本質はこぼれ落ちやすい。科学や学問はただひたすらに言葉と論理の力で世界を分類し、名付けをする行為ともいえる。

 そのためには剝き出しの自然や本性に触れている必要があり、五感の意識のありようが大切である。目の前の花、人などの言葉や情報でなく、そのものを受け入れることが大切である。

 五感の力を鍛えることはありのままの自然に反応できるための準備である。何か不思議なものを見た時に人は分かろうとする。見えても分かろうとしてはいけない。そのものを受け入れるのだ。言語や論理は「分かる」。自然の本質は、そのものを「受け入れる」のだ。文章にしていて今納得した。すごく気持ちがいい。

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