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「ヒトと人」



 柊介が産まれてからずっとそばにいる。オスとして些か奇妙な行動をしている事は認識していており、むず痒さもある。頭では外へ出て狩りにでも出かけなければいけないとは考えているが、育児休暇という制度を使って今も柊介の側にいる事ができている。 

 共に過ごす時間は、なんと幸せな事か。妻に怒られながらではあるが、そばにいる事を許してもらっている。妻は母として自立し、以前よりも逞しさに拍車がかかり、安心できる。すくすくと育つ時に気をつけたいと思っているのが環境である。言葉、規則、慣例から程遠いところでゆっくりとしてから、自分のペースで人間の生活を楽しんでもらいたい。これが僕の考える、とびきりの贅沢だ。

 ここ最近は、霊長類としてのヒトの機能的な事柄に興味がある。柊介を迎えるにあたり、調べ物は一切していない。反応をそのまま楽しんだ。今は新生児期が過ぎたのでこの期について調べてみるとおもしろかった。新生児には様々な原始反射が見られる。例えば産まれてまもない赤ちゃんも哺乳反射というものをもっている。赤ちゃんの口に入ってきたものを吸う反射能力だ。母乳を吸うのに大切な反射だ。出産後すぐに授乳していたのには驚いた。そして、掌に物が触れると握りしめる、掌握反応もその名残の一つである。今の赤ちゃんには必要でなく、一般的に3〜4ヶ月で自然に消滅するらしい。体毛があった頃に必要だった反射の名残で、赤ちゃんは親の体毛につかまるためという説を見て納得した。

 毛は森の中で体温を保つのに役立ち、暑い時は熱から身を守った。人は毛を失い、気候が変化し、動物の生息地が変化した結果、我々の祖先はサバンナに移り住む。二足歩行を始めた。直立二足歩行により、脳を下から支えられるようになったので脳を大きくすることができた。太陽にあたる面積が少なくなり、目の位置が高くなったので遠くを見渡せるようになり、エネルギー効率も良くなった。前足は道具を使うものに役目が変わり、多くの食べ物を一度に運べるようになった。そしてそれぞれの事柄は互いに影響しあっている。

 なぜ人は重い赤ちゃんを産むのか。脂肪率は類人猿の五倍である。その脂肪は脳を作るためのものらしい。新生児の脳は三段階で成長するという。1年で2倍、5年で大人の90パーセント、12歳から16歳で完成するそうだ。その一つに類人猿に見られる食物分配が注目されている。人間はその場で食べずに持ち帰り仲間と分配し、共に食べる。そして見えない物を欲望することができるようになった。速力の劣化、俊敏性の減退、木登りの能力と消化能力を減少させ、共感力増加に基づく社会力を選んだ。長距離歩行、器用な手、食物の運搬が共感力に作用しているらしい。そして共同での子育ても促すだろう。それらは互いに影響しあい脳の大きさにも影響を与えていると思われる。

 狩猟を行うようになり、走ることを覚えた。体毛を失ったことが功を奏し、汗をかき運動をする生活様式になる。残った髪の毛は熱の持ちやすい脳を冷やすために生えている。ヒトは他の類人猿と比べても多くの汗腺を持っているため、十分な体温調節をすることができる。体を動かす欲求も多くの汗腺が作用しているからかもしれない。

 先週るり渓の滝を見に行った。柊介はまだ近くで感じているだけだが、いつか一緒に飛び込みたい。裸足で水の中に入っていると度々足の裏を切る。そのたびに人が川や海での生活に適していないんだな、と感じる。木にのぼったり、ぶら下がったり、身体を通して自分が自然の中での生活に適してはいないことを実感する。ヒトは自然の中での生活から離れて久しい。昨日は蓮を切りに沼地に入り肌が露出していた箇所が他の葉で切れていたりした。泥だらけだったがそのまま新幹線に乗り帰るのは気が引け、着替えてから帰った。

 我々の祖先も、家の猫も恐怖を感じたら、毛が総立ちになる。体を大きく見せることが意思表示にもなる。この毛を立てるための筋肉はヒトにも備わっていて、我々は鳥肌を立てることができる。衣服を纏いほとんどの毛が減少した。今の生活様式に必要な反応ではないが身体に残っているものの一つで、他にも尾骶骨も尻尾の退化したもので、いずれも自然の中で生活していた名残である。蓮池の蓮も先祖返りして白い蓮、八重の蓮、一重のものなど様々であった。尾骶骨の生えた人間が生まれることもあるそうだ。地球は遠い時間と生物の面白さで満ち溢れている。研究する気にはなれないが、見たり聞いたりするのは好きだ。

 霊長類の中でもゴリラやオランウータンなども含む類人猿は早期に顔の毛を失ったという。表情を使って我々は意思疎通をしていることがその原因としてあるそうだ。その中でも目の情報は非常に大きい。目に関する慣用句や諺が多いのもそのためだろうか。人に関して言えば視覚からの情報が8割ほどであるという。そして相手の目からも多くの情報を得ている。人は人の中で生活するにはたくさんの人の顔から無意識に自分の行動を決めてしまっているのかもしれない。産まれた頃から柊介を見ていても人によってコロコロと態度をかえ、7ヶ月を過ぎると、相手の喜ぶことを探して何かをする仕草が増えたように思う。大切なことだが一方で自分の世界の中に入り込めるような環境作りも夫婦でしている。今日も妻が洗濯物に夢中になる柊介の動画を見せてもらった。良い表情である。多少危なかろうと、本人の主体性を守り、没頭できる場を作れる母親は本当に凄いと思う。

 人以外の動物は絶対音感を持っているらしい。言葉を解釈する上で音程は重要視されず、一音一音の意味が大切になる。音程に気をつけて話を聞くと、言葉が聞き取れない。自然と絶対音感は崩れていく。音楽に携わっていると、その感覚が衰退することを止めることができるのだろうか。音楽に携わっている人に絶対音感を持っている人が多い。

 音階は音を記号化したものである。一方でノイズともいわれる音達も存在する。ノイズも音階に当てはめることもできるらしいが、無理に音階に当てはめなくてもいいのではないかと思う。言葉に関しても話す言語からはみ出た言葉は、ただの音である。

 幼児教育の世界ではよく、「ぴちゃぴちゃ」「ざあざあ」などのオノマトペの効果が期待されている。言語の中ではまだノイズに近いから注目されているのかもしれない。言語とただの音の間にあると思っている。言葉以外の音を口からも出すように心がけているのだが、これが難しい。ヒトとしての感覚に磨きをかけたい。

 たくさんの音に囲まれて、汗をかくことを楽しみ、脳を充分に使って考え、人との関わり合いの中で自立をし、精神的に豊かな生活をおくり、善く生きて欲しい。些か願いすぎか。格好の良い背中作りたいものである。

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