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「義祖母との散歩」


 隠居して山に暮らしたいとふとした時に思う。隠居生活の先輩である祖父母のお宅に遊びにいった。山に囲まれた家から見下ろすと川が流れている。楓が目を引く。その足元には躑躅が咲いており、大きな台風が来る前までは藤の花が一面に咲いていたそう。ゆったりと川の音が生活の中にある。山の香りを楽しんでいると、川の上流へ向かうよう、カワセミが驚くほどの速度で通り過ぎた。義祖父母によるとしょっちゅう遊びに来るそうだ。昼から肉が大好きな義祖父と競うようにすき焼きを食べ、妻と義祖父は川の音を聞きながらウトウトと昼寝。私と義祖母は山へ散歩する。数十秒歩けば森の中。外来種の植物を薙ぎ倒し、大きな枝、大きな石を端へどかしながら、やわらかく歩いていく。

 その光景が後から見ている僕には、山を整えているように見えた。義祖母が山の一部であるようだ。鳥が蜜を運ぶがごとく自然な行為にみえた。それは僕が人だからであろうか。人でなくともそう感じられるのではないかと感じている。自然と人との付き合いは長い。原始的であるがあるほど濃密な付き合いがあった。家にお米が届く現場さへ見ていない僕は自然との付き合いが非常に薄い例だろう。

 都市において整えるとは自然物をなくすこと。人の住む街にすること。西洋の庭園に見られるような人工的な幾何学的な形を楽しむ庭園と比べ、日本の庭園は自然美を表す。いけばなにおいても、個人的に好きではないが、人の解釈にあてはめた幾何学的特徴に着目して楽しむ物と、植物そのものの魅力に着目して楽しむものがある。いずれの場合であってもそれは自然そのままではない。「手入れ」とはそういうことである。人は自然を看るる事によって、返って自然を内から従わせる特徴を持つとも言える。

 都市化された環境に慣れた人の原則として都市の中に自然を置くことを酷く嫌う。ここでの自然は手入れされていないありのままの野生である。昆虫がいると驚き、土が見えていると驚く。日常の髭剃りや、化粧も自然からとの距離のとり方の一つである。全てが人によって意識的に作られたもののなかで生活している。テーブルマナーもこの視点で見てみると面白い。街路樹や庭は人が看ることで管理されている。死体があると驚く。人の死は人から遠ざけられる。死ぬ前に病気で病院に隔離、亡くなると大急ぎで火葬場に持って行く。そんな環境で育った人達に死生観をもてといっても妄想でしかない。

 いけばなは芸術の中でも自然との関わりを思い出させてくれる。都市化する前のヒトに返す装置としてあり続けるのかもしれない。その時間が大切である。整理整頓された無機質な部屋に花を置くと場の空気が変わる。生き物としての安心感がそこにある。

 義祖母は立派な杉の木に手を合わせ拝む。僕も御所にお気に入りの楠木があるのだが、それは拝む対象ではなく、友達のような感覚でいる。木に登り、寝転ぶ。幼い頃は楓の木に登り、時を過ごしていた。圧倒されるような木を見つけると立ち尽くす。撫でたくなる時も、抱く時もある。記憶している初めの木登りはスイスのジュネーブでの木登りだった。当時幼稚園児だった僕より年上の子供が登っているのを見て自分も登りたくなったのを覚えている。一面、緑の芝生が整えられていて、木が綺麗に見えた。家の近くの公園では地面が砂だったからか、木の幹にジュネーブほどの魅力を感じなかったのだろうか。母いわく「あんたはサルみたいやったで」とあった。よっぽど木登りが上手だったのだろう。上手な例えである。木と自分の関係は少しづつ変わっている。今でもよく木に登ることはあるが、ここ最近、手をかざしたり、抱くという行為が追加された。木を味わうというのだろうか話を聞く感覚に近い。触診とも似ているが少し違う。木と戯れ合う時もあれば共に時を過ごす時もある。拝む行為は木がある感謝の念がそうさせたのだろうか。

 自分が歳を重ねた時、手を合わせられるような木が見つけられるのだろうか。木ではなく自分の在り方による物だと考えている。義祖母を見ていると感謝の気持ちが体表へ溢れ出ているようだ。まだまだ背中は遠い。

 義祖母は話しながら慣れた手つき、足取りで山の中へ入っていく。妻の兄妹は幼少期この山で育ったそうである。オランウータンに似ているとは思っていたが合点がいった。最近、義祖母は口笛を吹きながら歩くそう。ウグイスの鳴き真似を2人でしながら川に沿って散策。口笛の音にウグイスが返事してくれる。山の中には僕たち以外に人はいない。ある程度中へ入ると風合いが変わったウグイスの鳴き声が聞こえた。「ここからは別の鳥の縄張りです。」と案内してくれた。モズの縄張りだ。様々な鳴き真似で遊んでくれる。モズは他の鳥の鳴き真似をする面白い鳥だ。僕が続いて鳴き真似をすると、また違う鳴き方で先導してくれる。様々な鳴き声で遊んだ。足元を見ると茶色のカエルが川の水を浴びながら羽虫を食べている。「昔は蛇がいてんけど。」と義祖母、なるほどこのカエルは平和に慣れていそうな体たらくなわけだ。整えられた道を除けばそこには自然が広がっていた。この自然の中では僕はとても定住できそうにはない。たまに遊びにくるくらいがちょうどいいのだろう。義祖母と僕の事をウグイスが家に帰るまで見送ってくれた。僕と自然の距離である。

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