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私とレモンとお花と



家にいるレモン(飼い猫)は今年5の月で10歳になる。人間で言う56歳に相当するそうだ。家に来た頃は、僕より年下だったはずだが、随分と歳を追い越された。来年には家元と同い年になり、じき追い越すだろう。

 自分が感じた1分はレモンにとっての何分なのだろう。時間を数字で把握していないであろうレモンとの比較は難しいが面白いので考えてみることにした。こうして考え事をしていると時間がすぐに経つ。

 思い返してみると、自分の落ち着きの無かった幼少期は時間が経つのがなんと遅かったことか。人一倍の体力を持ち、走り回るのにずっと付き合ってくれる人は珍しかった。特に大人に対しては大きな不服を申し立てていた。「いつまでゆっくりしてるの?」と母親に尋ねても、「今やっと休憩したとこやしもう少し休ませてよ」と返事が返ってきた際は時間の感覚のずれにイライラしていた。なんともゆっくりと動き、いつまでくつろぐのかと、大人という生物を不思議に思っていた。1分の違いに初めに違和感を覚えた時である。

 いつだったかは忘れたが、面白い本を読んだ。その本によると体感時間と脈拍には大きな関係があるそうだ。つまり、体の大きな動物ほど時間はゆっくりと経過し、体の小さい動物ほど時間は早く経過する。同じ1分でも、生物によって流れる時間が異なるというわけだ。
 
 ゾウにはゾウの時間、ネコにはネコの時間、そして、ネズミにはネズミの時間と、それぞれ体のサイズに応じて、違う時間の単位があることを、生物学は教えてくれた。生物におけるこのような時間を、時計の時間と区別して、体感する時間と考える。体が16倍大きくなると二倍ゆっくりと時間が経過する。

 この考えを是とするなら、同じ1分という時間でも、ゾウはとても短く感じるが、ネズミはとても長く感じていると考えられる。大人と子供の体感する時間と時計の時間の差と同じことが当てはまりそうである。平均すると大人と子供の脈拍の差が一分間に10以上ある。子供は脈拍が早いので、過ぎる時間が長く感じられるのだろう。

 さらに、ハツカネズミの寿命は2〜3年、象は70年以上生きるが鼓動は20億回と同じであるそうだ。通常、生物の体の大きさに寿命が比例しているのだが、例外はある。人だ。医療の進歩で人の寿命は30歳ほどだったはずなのに今では80ほどになり、百年になるとも言われていおり、非常に興味深い個体であることは確かだ。

 苦しいことをしている時は時間が長く感じるものだと言われるが、それは、苦しいことをしていると拍動が速くなるので、それに伴って体感する時間が遅く経過しているからだろうか。つまり、体感する時間が早く経過し、時計の時間は遅く経過していると感じるわけだ。

 御神木として祀られているような常緑の大木などは1000年を超えた個体は数多く発見されている。動物で例えるならばエネルギーを大切に使い、大きな個体であるゾウにあたるのだろうか。それに比べ、広葉樹の桜などは数百年である。毎年花を咲かせ、葉を落としたりと忙しい。植物の脈拍を測ったことはないが、エネルギーをたくさん使い、忙しいハツカネズミと似ているところがある。

 算数が得意でないので計算する気にもならないのだが、人にとっての1分と身近な木の感じる1分位は大きな隔たりがあることは間違いがない。僕の曾祖父も見ていたであろう庭の寒椿は私たち家族のことをどう感じているのだろう。

 1分の感じ方に大きな隔たりが植物と人の間では大きい。大人と子供の時間感覚の比ではない。少しでもゆったりとした気持ちで、少しでも長く植物と居ることが、植物に寄り添う事になるのだろう。

 狩猟をしていた時代は木化けや、石化けをして獣や魚に人の気配を悟られないよう、木や石に化けていた。おそらく木や石に呼吸を合わせることなのだろう。狩猟はしないがなんとなく大きな木や石の上で感じたあの感覚に近いものだろうか。見て感じるだけよりかははるかに本質的な何かを感じた。

 人が植物と共にある事は考える以上に難しいことなのかもしれない。人は一緒にいた気になっているだけのことかもしれない。時間に追われて生けるお花は植物の気持ちを置いてけぼりにしているものになるだろう。

私とレモンとお花は一緒の時間をよく過ごすが、同じ時間だけいても同じだけの時間は感じていないらしい。それぞれがそれぞれの時間の中に在る。

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