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「自分と自分」


 12月7日午前1時59分にそれはそれは元気な産声が響いた。

 このご時世に幸運にも奇跡の瞬間に立ち会う事ができた。夫婦共に様々な治療を受け、産まれた待望の我が子である。特に妻と柊介は本当によく頑張ってくれた。

 子供が産まれるとグループホームでは意識していた、自分が環境であるという認識を家庭内でも強く持つようになった。産前は全く気にもならなかった事を問題だと捉えるようになったのが変化である。

 私は最大限、自分自身を大切にし、可愛がり、甘やかしてきたつもりだったのだが、どうやらそれは、最大限ではなかったらしいと気がつかさせられた。それ以上の事をしたいと思える人が現れた。不思議である。

 人から見られた自分を想像する事はあったが、子供が産まれると明確に見せたい自分がある事に気がついた。そしてそれは、なりたい自分でもあった。つまりはこのまま僕は僕でいることが大切だということだ。

 日本では、不思議な事に自分を指す言葉が相手を指すことにもなる事がある。自分という言葉や、僕は、私はという言葉も相手にも自分にも使うものの一例である。英語であれば「I」「you」ではっきりと別れており自分のことを「you」と呼ぶ人はいない。人を思うおもてなしの文化とも関わっているのかなと想像も膨らむ。

 色にしてもそういった曖昧な領域があるようだ。具体例としては、信号機の青色は、緑色だが、法律でも青色と表記されているらしい。青菜も葉っぱは緑色なのにも関わらず青色という。赤黒白以外の色は古代から平安時代頃まで「あお」色と総称されていたそうである。ある仮説によると、固定していない変化するあらゆる色はあお色だったらしい。この日本語の、日本の風土のあやふやさが僕は好きだ。自分も相手も、自然も関係なく全てが溶けたようにあやふやな世界が。心地がいいだろうと思う。
 
 漢字、ひらがな、カタカナを使い、ローマ字を使い、年末になるとお墓参り、クリスマス、除夜の鐘、年が明けると初詣、お年玉をこなす日本人が否定的に捉えられる事もあるが人と人の繋がりが強くなり、世界が狭くなった今、私個人の感想としては悪い気はしていない。それぞれの文化を勝手な解釈で生活の中に落とし込み日々を楽しんでいるように見える。

 お花に触れ、お花を家に持って帰ってもらえるイベントの機会をいただくことがある。こんなに有難い機会はない。いけばなでなくとも、お茶でも和歌もいい。その国の季節と風土と共に育まれ、時代と共に変化し続けながら残り続けるものに関心がある。特に衣食住は見ていて面白い。季節と共にあり、様々な工夫や遊びがそこにはある。その断片を少しでも人に伝えているうちに、将来はそんな人達と共に過ごす事ができたら良いなと夢を見ている。一日を味わいながら丁寧に生きていくことが時代を追うことに難しくなる気がしているが、忙殺され一生が終わっていたなんて寂しすぎる。

「忘己利他」とは、自分を忘れて他人のためにつくすことをいう。「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べている。海の大きさを身をもって体感できるかと言われれば難しいのと似ている気がする。それだけの精神を是非とも身につけたいのだが、こう言っている間はまだその道は遠く、険しそうである。己を無くす事は他と溶けるということでは無いだろうか。私自身が追求したく思っている、花と溶けるというテーマとも密接に関わってくる。

 己を忘れるほど自分を満たせば、他を利する心が芽生えるのではないだろうか。自分が良い状態でいなければその環境を、人を、花を生かすことは到底できない。これからも自分を大切にし続けていきたいし、自分をその環境、季節に抱かれながら在り続け、それを人に伝えたく思っている。自分が実践したいのか実践をしてもらいたく思っているのか分からなくなってきた。

 自分は自分であると思える様になった事は、自分から離れることの始まりかもしれない。

「自分」を大切にゆっくりと、力強く、歩いて行く。

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