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信仰の場



 信仰の対象となる場に興味があり、暇もあるのであちこちへまわる。今回は島根県の出雲大社と鳥取県の投入堂を目的にいくつか巡ってきた。信仰の対象は世界に目を向けると特異なものもあるが、自然に対するものであったり自然を介するものが多い。理屈なしに信じることができる説得力を持つ場や物はそう多くはないだろう。

 出雲大社の御本殿から特別な何かを感じた。人工物であるはずだが、自然的な魅力を感じる。それは大社を構成する柱や装飾がそうさせてるのであろうか。不思議な感覚だった。というのも、場そのものからは強い何かを感じ取ることができなかったからだ。

 大社からは理屈なしに信じることができる説得力を感じた。伊勢神宮や、大神神社の周りの自然から感じられる場とは違い、つくられた場であるかのようだった。信仰する態度が形となって現れたものだろうか。もともと特別な場であったのか特別な場を作ったかの違いであろう。どちらも特別な場であることに変わりはない。出雲の大社と伊勢の神宮の在り方は違えど、見て感じた不思議な感覚はどこか似ている。

 出雲大社の神殿は他の神殿と見比べても大きかった。今の本殿の高さは24メートルであるらしいが、4世紀ごろに作られたという本殿の高さはビルの15階建てに相当するそうだ。最近、巨大な柱が新たに発見されたり、現存する絵図から専門家が調べたところ、これが有力な説であると聞いた。出雲大社の高さとその大きさが、理屈なしに信じることができる説得力を生み出したのだろう。出雲大社の本殿や、構成する社、一定の間隔に植えられた松からも神秘さや凄みを感じた。

 想起されるのが樹木信仰である。日本はもちろん、ユーラシア大陸一帯にもみられる信仰だ。ヨーロッパでは真っ直ぐに伸びた針葉樹を切り倒して立て、周囲で踊るメイポールという五月祭がある。日本の水口祭りに似た意味を持つ祭だ。同様にクリスマスツリーも樹木信仰が強く関係している。高さは大切な要素なのだろう。
 
 そしてこの心や本質は立花の真として形を変え残っている。日本では杉や檜などの常緑針葉樹の大木は、天から神様が降りて宿るという観念で注連縄を張り、御神体として崇められている。後に立花の真になり、門松も繋がっているといわれている。出雲大社の高さへの意識と関連している思う。積み木を積み上げるのも高いタワーを作るのも似た物だろう。

 地元の方に聞くと年間を通して風が強く吹くため家の周りに松を植え、家を守ったそうだ。近年の台風の増加により松が倒れることから築地松もなくなりつつあると聞いた。僕が出雲におとづれた際は神社の周りに築地松があるぐらいだった。稲佐の浜に行くと強い風にさらされ続けている松と出会った。一足先に咲いている椿を撮影するも止まったところを撮影できなかった。出雲で感じた風や海の波、太陽は古事記を少しばかり思わせる場だった。色濃く残っていたとは言いづらいが、残り香を嗅ぐことができた。

 投入堂の参道はおもしろかった。修験道の開祖であると言われている役の行者が投げ入れたという御堂だ。なぜこの場所を選んだのか。ずっと気になっていた。二足歩行できないほど急勾配の参道を手も使い登っていく。岩や木の根を頼りに、這い上がる。途中で鎖を使わないと登れない場所や、ここから足を滑らせたら命を落とすであろう箇所が何箇所かあった。周りの景色を楽しみながら楽しく登った。登拝というよりかは好奇心で投入堂までの道中を楽しんだ。和袈裟をかけているとなんだか僧侶のままごとをしている気にもなる。

 投入堂は建築的にも強い関心を寄せられている。人の手によってつくられた御堂だが、山に溶け込み違和感が全くない。むしろそこになければならないと思わされるほどに存在感がないことが強く気になった。理屈なく納得できるのは気持ちがいい。建物が景色に溶け込んでいたように感じた。静かに強くそこに在った。見事である。
 
 理屈なく納得できるような、静かに強くそこに在る花を生けたい。そしてその花が場溶け込んでいると存在感も無くなるのだろうか。その時には私もそんな人になっているだろうか。

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