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『勘違いと見立て』



 勘が違っている事、物事を間違って思い込むことである。山の中で捨てられているゴミが花に見えたりする。見間違いだ。山の中に花を探しに行っているのだから色が目についてしまう。そのたびに残念な気持ちになる。花は誰かに気づいてもらいたくて色をつける。それは虫かもしれないし、鳥かもしれない。あるいは人間であるとも思う。そしてお菓子の袋もまた人に選ばれたくて色をつけている。山を歩きながら、勝手に期待して勝手に間違え、残念な気持ちになった。ただそこにゴミが落ちているだけなのに。

 レビー小体型認知症は幻視を伴うことがある。レビー小体に限らず、認知機能が低下すると少しずつ勘違いをすることが増えてくる。よくよく話を聞いてみると、幻聴、幻視にはきっかけがあることに気がついた。火のないところに煙はたたないらしい。幻視、幻聴は見間違い、聞き間違いなのかもしれないと考えている。マスクに赤い絵の具がついていたら「鼻血出てるで!」と心配したり、「屋根の上を人が歩いてる!危ない!」と訴えがあるので見てみると鳥が歩いていたり、時には屋根を修理する人が歩いていたなんてこともあった。「あそこで男の人がずっと見てきはる」と不安そうな顔で相談された場所をみると確かに少し影ができていて不気味な雰囲気があるようにも見える。幻視に分類されるのは最後の例だけだと思うが、いずれも認知機能の低下による勘違いである。そして物事を感じとるセンサーの感度が増加しているように思う。不安がそうさせているのかは分からないが、何かを感じ取る感度は確実に高い。そして言葉から解放されているようにも思える。

 道端での他者の話に耳を立ててみると、それぞれが話したいことを話していて、お互いに違う話なのだがお互いが満足そうにしている光景をよくみる。グループホームでも見かける。お互いに笑いながら話したいことを話せるだけでいいのかもしれない。

 人の話を聞く時には、大抵、見当をつけて話を聞いているので、本当に話を聞いているのか怪しい。僕が勘違いをする時は話を適当にしか聞いていない時が多い。話を聞くと言うことは思いの外、難しい。それは聴こえる話に見当をつけてしまうからだ。見当をつけて聞くともはやそれは自分の話である。人の話は聞きたいようにしか聞けない。自分の知識と経験からの予測だ。会話を抽象化しある程度の数のパターンに分類してしまう。全く同じ経験をしたわけでもないのにすぐに分かった気になってしまう。その人からされる話はその人特有の物であるのにもかかわらずだ。

 弟から「満月やで」と写真が携帯に届いた。通りの街灯の明かりに続いて満月が配置されており、どれが月だかよく見ないと区別がつかなかった。写真で見ると月も街灯の明かりも見分けがつかない。目を騙すのは容易いらしい。見間違いを誘発させる意図が見えた面白い写真だった。エッシャーの騙し絵やトリックアートに分類される絵が好例だろう。

 意識的に勘違いをする変わった見立てという文化。日本庭園は石だけで水を表現したり、擬音語やごっこ遊びも見立てがあってこそである。花で言えば、花の色と葉の形から付けられた雪柳が真っ先に思い浮かぶ。他にも女郎花、擬宝珠など数多くある。見立ては想像力を大きく刺激する。

 意識せず間違って思い込むと「勘違い」意識して間違って思い込むと「見立て」になる。

 小学校6年生の頃、自分たちが一番偉いと思っていた。中学三年生の頃も威張っていた。高校三年になると他の中学生や小学生を見て自分にもあんな頃があったんだと驚く。大きな勘違いがわかると一皮剥けた気がする。今も同じことを繰り返している。偉いと思っていた時は根拠はなかったが自信があった。

 今25歳になって自分の大きさが分かった気がする。そしてこれも勘違いなことも分かっている。まだ実感はしていないが。見える世界が少しづつ変わった。小学生の頃よりはいくらか、マシだろう。成長を求めてというよりは、好奇心が先行して、今もしたいことばかりしている。自分の前提や常識が大きく覆されたときの驚きと成長は大きい。何回もやり直すのだ。そして、おかしな影響を受けるような環境にはいたくない。早急に立ち去るよう心がけている。食べたものが体を作っているのと同じで環境が自分を作っていると考えているからだ。

 歳を取れば取るほど、その前提や常識は揺るぎないものになってしまい、疑うことが難しくなるらしい。今までの自分の知見を疑うことが自己の否定だと勘違いするからだろうか。自分の常識が固まって安心できている時が一番危ないだろう。自分がこのまま歳を重ねる度にその都度疑いを持ち、勘違いを認める気概が必要なのだろうが、自分がどうなるかは分からない。

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