見出し画像

「いけばなってなんだろう」



 いけばなってなんだろう。不思議な文化である。言ってしまえば、切り花を水の張った器に人が入れることをいう。何が人を夢中にさせるのだろう。

 この家に生まれたからだろうか。自分がしたいいけばなと、流祖の意見が合致している。この家でなければ、成人になってからも生け花をしていなかっただろう。人に伝えるならなおさらである。個人的には流祖の意見を知るより前からこの気持ちは芽生えていたのでたまたま一緒だったと思っているが、師の影響は多大である。家の影響だろう。自分の信条を曲げるつもりはない。その時に思った正解を間違いだと気がつくまで、貫くつもりである。間違いに気がついたら修正すればいい。

 いけばなについて調べたければ、起こりについて調べればよい。今のいけばなと同じとは言わないが通じるところはあるだろう。いけばなは、仏教から起こったと言われているが、仏教発祥のインド、中国やベトナムなどのアジアの国であっても、いけばなに相当する文化は見当たらない。仏教の起こったインドでは植物は心を持たないものとされていたが中国の仏教で芽生え、日本で特に流行した「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という草木や国土でさえ皆んなことごとく仏性があるので成仏しますという教えが広まった。いけばなは花を即身成仏させることなのだろうか。この土壌が他の仏教が布教された国では起こらなかった、いけばなが日本で始まった理由の一つではないのかと考えている。学者ではないので正確なことは言えないが自分なりに調べて考えることは楽しい。

 私は仏教の影響が大きいことに対して異論はないが、仏教を迎え入れるまでの日本の素地に興味がある。今日は二つの慣習について触れてみる。水口祭(みなくちまつり)と鳥総立て(とぶさたて)だ。

 水口祭は稲作儀礼の一つでだ。苗代に籾を播く日に水口に土を盛り、季節の花や小枝を挿し、御神酒や焼米などを供え、山の神(田の神と同一視されている説もある)に豊作を祈る祭りだ。季節の草花である山吹や、ツツジなどの枝を畦(あぜ)に挿すという儀礼が残っている。
 田の神に花を立てていたとも言えるだろう。依代としての一枝である。人々は縄文時代に稲作が始まってからさまざまな形で豊作を祈り続けた。銅鐸、稲作が始まり、どれくらい経ってからのことなのだろうか。いけばなが生まれた土壌として充分に考えられる。

 農業を覚える以前のその日暮らしの生活から、稲作を覚え多すぎる恵みに戸惑いを覚えたのだろうか。森林や原野を開墾することは、野生の木,そしてそこに宿る神々や精霊は,人間に対して敵意をもつ恐ろしい存在と考えれていたらしい。

 鳥総立ては万葉集で詩にも読まれた神事で、文字で残る最も古い風習らしい。これは長い時間をかけ大切に育まれた木を、造営に使用させて頂くことに感謝するもので、切株に梢を挿してその再生を願う風習だ。もちろん、今も行われている。砂の物の正真の切り株の後ろからのぞく松にそっくりだ。鳥総立てもいけばなに影響をもたらしているのだろうと推測する。

 林業も効率がよくなるにつれ伐採する量が増えた。多すぎる恵みは戸惑いを覚えさせ、人に神事を創らせたのだろうか。
 
 ご飯を食べることは命をいただき、生きていく事、つまり身体を作ることである。

 花を生けることは命をいただき、生きていく事、つまり精神を創ることであろうか。美しいと感じるのは人の心。各個人が花を美しくしているのだ。

 人の数だけ美はあるが、共通点は多く、美しいとされるものに傾向はある。それが型と言われるものだろう。だがそれは一見、本質に見えるが全く本質ではない。本質を伝える際に型に変換しなければいけなかっただけである。一本の松をどう型に当てはめるか考えることは間違っている。その一本の松をどう生かすかである。

 生物(なまもの)は美味しい。魚や野菜の生は格別に贅沢で味わい深く、瑞々しい。

 生物(なまもの)とは、生(せい)のあるものである。生きているものであるということだ。いけばなは他の芸術とは性質が異なるだろう。ドライにされた魚やトマトは味が濃縮されてはいるが、生とは別物である。私個人としては干物も好きだが、やはり生のものは気持ちがいい。

 自然のものは、何もしないままが美しいのか?それならばわざわざ切り取らなくてもよい。 花を切った瞬間に生の輝きを植物はみせる。鉢から植物を切った時や、大きな木から切った時に感じる。その他大勢から、その一本に焦点が合うからだろうか。まだそれが何なのかは分からない。

 お花を側に置きたいという気持ちが人にお花を生けさせたのだろうか。トマトを丸かじりすると美味しいが、輪切りにし、綺麗なお皿にのせ、オリーブオイルと塩胡椒、モッツァレラチーズを添えて食べると違った美味しさを味わうことができる。人の手が加わるということだ。

 生けたお花を見て思う。自分は嬉しいが、花は嬉しいのか。みられることに喜びを感じて欲しい。花から直接返事をいただいたことはないが、気持ちよさそうにしているのを見ていると喜んでいるように見える。

 生き生きとしているものは美しい。

 美しく見えるものは洗練されている。シンプルであることとは少し違う。数が多くても洗練されていると綺麗に見える。一本も、一つの葉も無駄な物がない事をいう。
 そもそも植物の美しさに魅せられる一つの要因に植物の洗練された姿形があげられる。

 お花に無駄な部分はない。問題はいつだって生け手にあるのだ。

 美しいいけばなは、花と一体になり、そのものの魅力が引き出されている事をいう。大切なのは、その花、そして花を慈しみ、対等に在るということである。技術自体は大したことはない。姿勢とその人の在り方が、そのままいけばなとして表れる。

 グループホームで働いていてよく感じるが、対等でいるということは思いのほか難しいことである。認知症の利用者さんも1人の人間なのですよ、敬いましょうと上司が人に言っていたが、1人の人間として敬おうとしている時点で、全くそう考えていないのは明々白々である。職員に対してと、利用者に対して対等な関係を築いているように見えた人をまだ1人しか見たことがない。皆んな真面目に働いている。誰も利用者さんの事を下に見ているつもりはないのだろうが態度として、言葉の端々に表れている。

 花と人が同じ目線に立つことは想像以上に難しいことだ。花の取り合わせ、植物との接し方、枝捌き、水替え、言葉の端々に表れる。
 生き物の命(人の時間を含む)を扱う者として肝に銘じておくこととする。

 お花を生けるときは個性の尊重を何より大事にしている。最も気を使うところである。それぞれがそれぞれの個性を善い形で発揮できるように。

 生きることは誰にでもできる。善く生きることが大切だ。とソクラテスは言った。お花を花瓶の中に生けることは誰でもできる。グループホームで働くことは誰でもできる。生き生きとした個性を引き出すことが大切なのである。今僕は花に夢中だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?