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お花の倫理(復興いけばな宣言)


 倫理とは「人として守り行うべき道」とある。

 人は変わり続ける。すると倫理も変わり続けるだろう。26年ほどみてきたが、その時間だけでも倫理の移り変わりを眺めていて興味深く感じている。

 近頃イルカショーの廃止のニュースが流れていた。楽しみにしていたのに残念だとの事。古代エジプト、中世のヨーロッパの頃から王侯貴族が、戦利品として収集し動物を持ち帰って見せたのがサーカスの始まりとされている。獅子は王と共に描かれているのを目にする。程なくしてサーカスが誕生し楽しまれてきた。家畜化にも成功し、人は増えた。家畜の在り方など人と動物の関係が見直されるようになり久しい。人が広い視野を獲得していくたびに倫理は上書きされていく。今動物と人間の関係がもう一度見直しされようとしている。

 学生時代、北海道の登別の熊牧場で熊に向かって魚を投げる事ができなかった。周りの観光客は、可愛いといい、熊の群れに向かって上から魚を口へめがけて投げて喜んでいる。口から外れた魚には見向きもしない。私は餌の購入を拒否したが、同伴していた友人が一つ魚を分けてくれた。人が動物へ魚を与えるという図式をまざまざと見せつけられた様な気分だ。数メートル離れた熊に魚を遠くへ投げ、歩くよう促すが、口に上手に投げられた魚しか口にしない。もちろん、熊牧場は餌やり体験で観光客を惹きつけているのだが、熊の研究、保護、観察、熊と人の共生するための方法を知るために始まり、今でもそれは変わらない。餌やり体験で人が惹きつけられることが個人的に情けなく思っている。

 こどものいけばなでフトイ、バラ、ナルコユリでお稽古をした。好奇心の強い彼はフトイを曲げて剣山に刺していた。母親は私の顔を見て申し訳なさそうな表情をしているが彼を見守っている。母親曰く、他流派のお花でその様なお花があり、やってみたのだそうだ。私は彼に聞いてみた。「薔薇は曲げなかったのですか?」可哀想だから曲げないとのこと。フトイは可哀想ではないのかと尋ねると可哀想だと言う。好奇心でお花に対して失礼なことをしてしまったのだと落ち込んでいた。無意識でなく、意識的に人が変わることで自分が変わることについて話した。先生の前の自分と母親の前の自分。ちょっかいを出していい相手と出してはいけない相手の違い。彼はいじめの問題も無意識な決めつけが原因であるとの結論に至った。それが合っているかはともかく、考えることが大切だと感じている。

 推察するに、彼は自分と向き合っていたのだろう。そして僕は花と向き合うことを伝えたいと、再認識した。だがそれはその花の向こう側の自分と向き合っているのかもしれないとも考えている。

 オリジナリティが大切だとされる、今の芸術の世界で自分を出そうとする事は自然な事だが、私は、無理して作ったオリジナルだと主張する作品の浅薄さがいけばなに限らず苦手だ。いけばなの場合においても、無理せず、そのままが良い。同じ思いを持った人がいたとしても個人の差は表出する。花が一本一本違うからだ。同じ作品に見えたとしたらそれは見る人の力量不足だ。各個人が感じた花の魅力を引き出すのは人である。

 動植物をかわいいといい愛でている人はよく見かけるが、可愛がることとその生き物がいい状態であるかは全く別の話である。私はいい状態である事を前提としている。可愛らしいフトイを折り曲げることはフトイにとっていい状態ではないし、過度に撫でられすぎた犬はストレスを抱えている。

 生ける花として花がある場合に、葉の一枚、枝の線までに魅力を感じ、その姿を生かしきるいけばなを伝えたい。

 切花になった時点で花は死んでいるので何をしてもいいと考え、シンプルな葉、茎を面白くしようとその人らしさを花で引き出そうとするのは好みでない。過度に人の目を気にしてお花を生けてほしくない。過度な傾倒は大切なものを見えなくさせる。花の気持ちを考えず、その人の個性を大いに尊重してその人が大いに楽しむいけばな。植物をおり曲げたり、花を触る人が自由にすればするほど、植物は苦しそうだ。生き物の命を使って自己表現しなければならないほど人は特別なのかと疑問を持っている。

 生活に必要なため行われる利用や、飾る花としての利用に関しては、脈々と人の中で続いてほしい別の文化である。

 曾祖父の13世家元は新興生け花宣言を呈したうちの一人であるが、著書『いけばなの四季』で創作的な造形をいけばなとは明確に区別している。伝統的ないけばなや、現代的な盛花瓶花と創造的造形を混同することがいちばんよくないことであると著されている。

 13世家元に会ったことはないのだが、本を通して、熱量のある主張、写真に残っている花や造形作品を通して魅力を感じている。13世の家元のお弟子さんに話を伺うと人となりが少しずつ浮かび上がってくる。古い本ではあるが、読みごたえ十分で、この時代に読んでも面白いことに驚く。

 光ウサギの研究は倫理的問題で中止されているときいた。動物のゆきすぎた研究は時として中止されることがあるらしいが、植物の改良が倫理的理由で中止された話を聞いたことがない。花粉のない百合や、青色の薔薇、虹色のカーネションの販売が当たり前のようにされている。光る花は存在し、観賞もされている。。花と動物の違いは、時間の違いと死の曖昧さなのではないかと考えている。

人は人以前から数世紀単位の年月を重ねるたびに、自分達から始まり、少しずつ大切にできるものが拡張されているのではないだろうか。人は誰しも自分自身の存在に対して強い興味をもち思いやり、大切にする。そして家族、友人、隣人、組織、といった具合に少しずつその幅は広がる。そして大切にできる範囲は動物にまで及びそうだ。次は植物の番であると個人的には期待をしている。ただ生類憐みの令みたく、規則として決めるのではなく、各個人が納得した上で広がってほしい倫理観であって欲しい。動物の愛護に関しても強要はあまり効果的でないことは明らかであろう。強引さは、わだかまりをうむ。花の倫理はこれからゆっくりとおこればいい。そしてそれは石にまで広がるであろうと予測している。

 岩や滝などの無機物にまで人と同じように霊的なものがあると信じられていた時代があった。狩猟生活をしていた時代である。自然の中に人がポツンといた時代だ。自然信仰が世界的に発生し、日本もその例外ではない。有機物、無機物問わず、全てのものの中に霊が宿っているという考えは、全ての物を大切にしていたからではないだろうか。有機物、無機物含めて、生きていく上で必要不可欠なものだったため、特別な気持ちを抱かせたのであろう。火を見たときに感じるあの不思議な感覚である。今、我々はその当時とは程遠い生活を送っている。

 花が好きな人は趣味で園芸をしている人が多いらしい。趣味で花を育てている人は花を大切にしているように見える。園芸をしている花の好きな人たちからの話によると、わざわざ生け花をする必要は無いみたいだ。花が大切だから、花に対して余計なことはしたくないと言う。花は花瓶にさして楽しむだけで、余計なことはしたくないとの事。それが花を生けることだと僕は思うのだが。純粋にお花が好きな人は、その花に魅力を感じているのであって花を瓶の中で生かす行為は、いけばなではないという。

 僕はいけばなをしようと思っている人でなく、花が好きな人とお花を生けて楽しんでいたいと考えている。良くも悪くも、いけばなには強いイメージがあるようだ。イメージが言葉の認識を限定させる。花の魅力を引き出すいけばなが広く知れ渡れば、お花が好きな人がお花を生けてみたくなるのではないだろうか。

 絵が好きな人は絵を描けばいいと思う。花も花が好きな人に大切に生けられていてほしい。介護も人が好きな人が従事すべきだ。それぞれの現場でお花が、人がぞんざいに扱われていることに強い憤りを感じている。まだ綺麗な花なのにも関わらず、いけばな展が終わると捨てられる花、真っ直ぐに育つきれいな植物をわざわざ折りまげ、切り裂いたりされる姿など、その植物がいい状態でないと胸が締め付けられる。人を人と思わない態度を取る職員。介護に関しては人権があり、法で守られているため、問題になるが、花を材料として見ている態度や、花の倫理は問題になりにくい。

人は人権で守られている。動物は新しく動物の福祉ができている。これからこの流れは加速するだろう。遺伝子の組み換えは人には行わないが、動物、植物には行う。遺伝子の偏りが絶滅リスクを高めている事にもなるが、遺伝子組み換えに対して反対しているわけではない。いま僕がこうして文章を書いている時間があるのも、その恩恵である。私が今生きている以上、簡単には否定できない。ただ、植物の倫理について、一度考えてみてほしいだけのことである。人に対して近い気持ちを動物に抱いた経験があるかもしれない。同じ感情を植物に抱く事は不可能ではないはずだ。少なくとも私が生けているお花に対しては強い好意を抱いている。

 在ることの尊さをただ、守りたい。そして生き生きとしているものをながめているとなんだか心地がいい。

 個人的にいけばなとは、その尊さを認め、生の魅力を引き出すことで、内に入り溶け込むイメージを持っている。誰が見ていても心地がいい。そして、その植物たちは生き生きとしていて、どこか温かみのあるられるお花。これが僕が願う、花人との関係であり「復興いけばな宣言」である。

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