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『なぜ人は花を見て落ち着くのか』

 
 華道家らしい花展とイベントで目まぐるしい秋だった。秋のお花を花屋で見て展覧会やデモンストレーションで生けるのは気持ちが良い。その裏で日は一日づつ過ぎ、いつの間にか秋を感じる前に終わってしまうかもしれないという焦燥感と過ごした秋でもあった。その時の自分の願いは御所を散歩したい、ただそれだけだった。家が近いという理由だけで、特に御所である必要は無いのだが、秋を感じられる場所、季節、自然に身を投げたいと言う思いは日に日に募る。

 花をいけるだけでは満たされていない。自分は、自然に身を投げ、その余韻のようなものなのだろうか。自然の場にいずとも草木といられるのは。切った方がその花とよく向き合える。それは己の未熟さもあってだろう。自然の中から帰ってきて初めて自宅で花を生けられる気がする。

 目に見えるところ以外でも人工的な空間は驚くほどの勢いで増えている。SFの書き出す未来は幾何学的に合理的に設計された超人工的な空間を思い浮かべる。そしてそれは今は実現しそうにも見える。

 SFの世界のような企業はいくつか思い浮かぶが、アメリカのAmazonという会社が植物趣味の建物を作ろうとしているらしい。Amazonは最先端のAIで最適化し、未来を予測する会社でその判断が、短期的には結果を得ることができても20年後の正解であるかは分からないらしく、最終的な決定はCEOの感覚であるそうだ。予測出来ないことが日常的に起こる。そして少しでも正確な答えが出せるよう精度を上げるため、Amazonはバイオフィリアの建物を作ろうとし今注目を集めている。バイオフィリアとは、人間は本能的に自然とのつながりを求めるという概念で、心身の状態を良い状態にするためには人との状態もだが、自然との関わりが必要不可欠であると言う考え方である。絵画史において風景画は、身の周りから風景がなくなってからおこった。人工物で溢れ自然の物がなくなった場所において自然が求められるというのは自然な流れだと感じる。

 ITか、AI化に進むも、つまるところは自分の感覚である。それを研ぎ澄まさせるためにバイオフィリアの効果が期待されている。経営をする人の中にもビジネスマンの人の中にも一部の人は木の枝、灯台躑躅などを飾る人がいる。そしてその中でも最近は観葉植物に注目が集まっているらしい。在宅での仕事や家にいる時間が長くなったことが起因しているとのこと。豊かな自分があってこそ他のことができるのだという。ビルや自動車道の街路樹といったグリーンではなく、四季と人生のうつろいを感じさせる自然の設計を求める流れになっていくのだろうか。植物を楽しむ人が増えるのは喜ばしいことである。

 人がいまのビルに囲まれて生活していた時間より、緑の中で生活していた時間の方が長い。建物を創る前までは、緑の中が安全で敵がいなかったためである。そのため落ち着くのだろうか。

 なぜ人は花を見て落ち着くのか。自分なりに感じたことをつらつらと書いていく。

 10万年前墓穴の一つからムスカリであろう花粉が見つかった。ネアンデルタール人 人間の生命と花が初めて結び付けられた。花と人間の魂、霊魂との関係を示したものとして有名であるが、このときには花に対して特別な気持ちを持っていたと捉えて良さそうだ。それより以前のことについてよく考える。

 まず人以前の話から考える。木の実を予兆させるものとしての花があったのではないかと考えている。

 猿は食虫類から進化してきた。モグラや、ヒミズの仲間で、蟻とかミミズを食べていた。猿の祖先は虫食い。サルの祖先は森の中へ虫を求めて入っていき、虫食いの生活をしていた。虫食いも一括りにはできない。逃げ足の早い甲虫や蛾を食べる猿、幼虫を捕まえるのが得意な猿に別れた。そして強い種が幼虫を食べられる下層部を占拠した。追いやられた甲虫を食べる猿はやがて、果物を食べるようになり、さらに追いやられた猿は葉っぱを食べることになった。葉は果物の2倍のタンパク質を含有している。よってオランウータンや、ニホンザルのように大型化し、肉を食べるヒトとなった。負けるが勝ちとはこのことであろうか。生存競争に負け、新しい食生を探し続けた結果である。負けて果物を食べる種類の身体が大きくなっていった。

 そして果物や葉を食べる種類は頭を使うようになった。動くものに本能的に反射で捕まえて虫を食べる種に比べ、どこにどんな木があり、どの季節にその実がなるのか。その実はいつできるのか。どうやら花の後に実ができるらしいと発見した種はそうでない種に比べ有利だったに違いない。その頃から、花の状態や葉の状態、植物に強い関心を持っていたのだろうと推測している。記憶力、認知能力が上昇したのだろうか。

 よくお弟子さんや、いけばな体験をしている人はお稽古のお花に対して「美味しそう。食べられますか?」と実物はもちろん花に対しても多くの質問がある。葉に対してはまだない。赤ちゃんや小動物に対して、食べてしまいたいくらい可愛い。というのも綺麗なものに対して抱く気持ちという意味では何か関係がありそうだ。理屈なしに花と向き合う、没頭した大人や子供と話している時間は豊かで多くの発見がある。

 鳥類も虫や、果実が主で葉っぱを食べるものは極めて少ない。猿はライバルが多く、葉っぱを食べるしかなかった。だが植物は葉を食べられる想定をしていなかったので、食べられないようにするために毒のあるものが多い。そこで猿は恐る恐るつまみ食いをする。一つの毒を集中させない毒の分散である。マハレというタンザニアのチンパンジーは、360種くらいの食物メニューを持っている。日本猿であってもだいたい100種は食べるそうだ。我々も色々と食べているが、種類数では到底敵わないほどである。猿は毒のものを見つけると、学習し、それを子供に伝えるのだが、私はそれを文化の芽生えであると考えている。

 それぞれの場でそれぞれの種の生活が少しずつ発展し今の自分の生活があるという認識を持っている。虫を食べていた頃と比べて自分の今の生活が優れているのかと問われれば、不思議とそうでもない。

 夕食後妻の菜月と部屋で音楽を流し聴いているのだが、最近は録音された自然の音を聞いている。なんて滑稽なことだと自分では思っているのだが、やめられない。虚だとはわかっていても心地がいい。読書や作業が捗る。雨の日は何もかけずに雨の音を2人で聞くのが楽しみである。クラシックは荘厳で落ち着かない。音楽を聴く事が目的の場合は最高である。ジャズは心地いい音が会話に弾みをつける。聞こえていても意識せず、そっとそばにある音を最近は好んでいる。菜月と昨日も鴨川を歩いてきた。他愛もない話をしながら空気を吸う時間がかけがえなく心地良い。結局なぜ落ち着くかは、分からない。

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