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『「介護時間」の光景』(171)。「第2の人生」「ホテル」。8.30.

 いつも読んでいただいている方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

(いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、「2002年8月30日」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年8月30日」のことです。終盤に、今日、「2023年8月30日」のことを書いています。

(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)。

2002年の頃

 とても個人的なことですが、1999年から母親の介護を始めて、その途中で、私自身も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり2000年の夏には母親に入院してもらいました。

 私は、毎日のように2時間ほどかけて、母の病室へ通っていました。帰ってきてから義母の介護をする日々でした。ただ、それだけを続けていました。

 自分が、母のいる病院に通っても、医学的にプラスかどうかは分かりませんでした。でも、通わなくなって、二度とコミュニケーションが取れなくなったままになったら、と思うと、怖さもあって、通い続けていました。

 この病院に来る前、別の病院の医療関係者にかなりの負担をかけられていたこともあり、やや大げさに言えば、白衣に、怖さすら感じていました。

 そういう気持ちは、新しい病院に移り、2年が経つ頃、病院を信頼するように変わっていき、この2002年の8月頃には、信頼するようになってきたと、記憶しています。

 そのころの記録です。

2002年8月30日

『午後4時55分頃、病院に着く。

 花を持って行った。

 母は、よく話した。声も、いつもより、なんだか大きいような気がする。

 いろいろと話をして、母は茶道をしていたので、千利休の話題も出た。

 夕食は40分くらい。

 気がついたら、今日で丸2年だった。

 2年前の今日、母をここに連れてきたんだ。

 暗い気持ちと、不安だけしかなかった。

 午後7時に病院を出る。

 今日は、プロ野球で、横浜と巨人の試合。

 さっきまで母と見ていたけれど、母は一人でも、午後8時までは見るそうだ。

 病院の廊下に、はってあった、患者の人たちが作ったカレンダーがよくできていた。母もこの制作に関わっている。

 帰る時、母がやたらと深いおじきをしたのが、少し気になった』。

第2の人生

 駅前。スーパーの前。親子連れ。子供は4〜5歳。母親は30代から40代くらい。隣にもう一人、同じくらいの年齢の女性。女友達か、子供を通しての友達か。3人で歩いている。

 子供を連れていない女性が、「第2の人生、がんばってね」と声をかけた。子供に向かって言っているようにも見えたが、やっぱり親の方に言っているようだった。

 だけど、言葉の内容のわりには何の感情もこもっていないような響きだったので、誰に向けたのか分からなかった。冗談で言っている感じでもなかった。

ホテル

 電車が次の駅に近づく。

 車内から見える青い空。不自然なくらい雲がない。
 港の方角には、切ったはっさくの形にも思えるホテルが見える。(電話で問い合わせをした時、ホテルの人は、ヨットの帆の形、と言っていた)。

 白いホテルが不自然なほどクッキリと見える。空にはりつけているみたいだ。

                    (2002年8月30日)


 この生活はそれからも続き、本当に永遠に終わらないのではないか、と感じたこともあったのだけど、2004年に母はガンになり、手術もし、一時期は落ち着いていたが、翌年に再発してしまった。そして、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」が終わった。

 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、在宅で、妻と二人で介護をしていた義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年8月30日

 8月の終わりになると、気持ちの中では夏の終わりを思ったりもするのだけど、相変わらず暑い。

 だから、たくさん汗をかいて、着替えて、毎日のようにたくさん洗濯物がたまるから、毎日洗濯機を回す。

 天気はいいし、気温も高いから、洗濯物はかなり早くよく乾くので、それはありがたいと思う。

 それでも、暑い。

 あまりエアコンを使わないけれど、32度設定で、時々、冷房にしている。

変化

 新型コロナウイルスの医療提供体制を強化するため、国は、医療機関が新型コロナの患者の受け入れに備えて病床を空けた場合、「病床確保料」として補助金を支払う、いわゆる「空床補償」をしてきました。

 補助金の額は病床の種類によって異なり、当初は1病床あたり1万6000円から43万6000円が空けた日数分支給され、ことし5月に新型コロナが5類に移行したあとも、半額に減らして支給してきました。

 この補助金について厚生労働省は、段階的に通常の医療体制に戻すため、10月以降は感染状況が一定の基準を超えて拡大するまで支給しない方向で検討していることが分かりました。

 また、感染が拡大し、補助金を支給する場合も、対象を、酸素投与や人工呼吸器が必要な症状が重い患者のための病床を確保した場合に限ることを、検討しているということです。

 先週の8月25日の定点把握では、5類以降後では「最多」の感染者数になっているのに、それは、「一定の基準を超えて拡大」にはならないのだろうか。というよりは、「一定の基準」というあいまいな表現であれば、それを誰が決めるのだろうか。

 ただ、こうした補助金をなくす方向という「方針」は、感染が増大している現在、もしも新型コロナウイルスに感染した場合、入院すること自体、どんどん困難になるのは間違いない。

 比較的若くて、持病がない人の場合は、そんなことをする必要も、心配をする必要はないだろう。

 だけど、若くなくて持病があって重症化リスクのある人間にとっては、感染した場合、より入院が難しくなり、自宅療養になって、急に重症化した場合、どうなるのか、といった恐怖心は増している。

 高齢者を抱えているご家族であれば、その気持ちの切実さは、ほとんど変わらないと思う。介護に関わる方々にとっては、家族介護者であっても、介護の専門家であっても、不安は大きいままではないだろうか。

 ただ、こうしたことを思う人は限られているから、その不安さえ、表に出しづらくなっていくのかもしれない。

配信

 ここ3年は、外出もほとんどできなかった。だけど、夏になると配信を見ることになって、それで季節を感じている。

 今日の夜の8時から配信開始で、アーカイブもあるから、別の日でもいいのだけど、なんでだか、できたら、リアルタイムで見たくなって、だから、夕食の時刻などを早くする予定になっている。





(他にも、介護に関することを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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