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「介護booksセレクト」⑯『シルバーヴィラ向山物語 母のいる場所』 久田恵

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 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/ 公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「介護books セレクト」

 当初は、いろいろな環境や、様々な状況にいらっしゃる方々に向けて、「介護books」として、毎回、書籍を複数冊、紹介させていただいていました。

 その後、自分の能力や情報力の不足を感じ、毎回、複数冊の書籍の紹介ができないと思い、いったんは終了しました。

 それでも、広く紹介したいと思える本を読んだりすることもあり、今後は、一冊でも紹介したい本がある時は、お伝えしようと思い、このシリーズを「介護booksセレクト」として、復活し、継続することにしました。

 今回は、介護保険以前の介護に関する体験記だと思うのですが、そこには、「通い介護」の時の気持ちや、介護をするときの負担感について、かなり普遍的な表現があると感じましたので、紹介させてもらうことにしました。

介護保険以前

 すでに介護保険が始まって20年以上が経ちます。

 「改正」のたびに、サービス抑制の方向に進むばかりの印象も強く、様々な問題点が多すぎるシステムだと考えられますが、現在、介護をするにあたっては、介護保険を利用しないことは想像できにくいほど、定着はしています。それ以前の介護については、時間が経つにつれて、どんどん分からなくなっていきます。

 個人的なことで申し訳ないのですが、私は家族の介護を始めたのが1999年でした。ちょうど、介護保険が始まる頃で、その当時は、正直、いろいろな意味で混乱をしていた印象があります。

 それから、私自身は、19年間、介護生活が続いたので、偶然にも、介護保険の始まりから、介護に関わってきたことになりますが、少しだけ、介護保険以前の気配に触れたことがあったのが、2000年初頭に、今はなくなってしまったホームヘルパー2級(訪問介護員)の資格を取るために、講義を受けたり、介護施設での実習を経験した時のことでした。

 介護保険の前は、介護は福祉の分野でした。ですから、収入などの制限などが当然あったのですが、逆に言えば、こういう表現は失礼かもしれませんが、困窮していたとしても、金銭面での不安が少なく、介護のサービスを受けられた、ということのようでした。

 逆に言えば、金銭的に恵まれていた方々は、かなりの資金を使って、恵まれた介護環境であることも聞いて、それは、とてもうらやましくなるような話でした。

 資格を取るために、実習で介護施設に伺った時も、ベテランのスタッフの方と少し昔のお話をしてもらったこともありました。その時はすでに介護保険が始まって2年ほどの時期だったのですが、施設内で利用者と作業をしながら、以前は福祉だったので、こうしたちぎり絵の紙も、和紙を使ったりできました……というようなエピソードも聞きました。

 そうした事実は、「ぜいたくだ」などと、いろいろな批判も受けそうですが、様々な衰えや病気などを抱えなければ、この施設には来ないことを考えると、そうした作業のときに、普通の色紙よりも、さらに微妙な色合いもある和紙を使えたりしたら、その時間は、せめて、少しでも豊かになるのに、とは思いました。

 だけど、そうしたことのすべては、すでに遠い過去のことです。

『シルバーヴィラ向山物語 母のいる場所』 久田恵

 恥ずかしながら、2001年に出版されていたこの書籍を、最近になって、読みました。そこには、介護保険以前の介護の光景が記され、残されていました。

脳血栓で倒れた母を自宅介護して10年、限界を感じた著者は、決断をする。母を老人ホームに入れるのだ。そこは、恋愛OK、煙草も飲酒も外泊も自由の、「高齢者専用長期滞在ホテル」だった。侠気の女社長、健気なヘルパー、個性的な入居者たちとの交流を通じて、人が老いて死にゆくことの真実を描いた、感動のノンフィクション。

 これが、その本の紹介文でもあり、有料老人ホームに入居できるということは、ある意味では、その時代でも恵まれていたのかもしれないけれど、自由度が高く、同じ介護施設であっても、かなり豊かな生活のように思えました。

 こうした昔の「いい部分」は残せなかったのだろうか、といった気持ちにもなりましたが、改めて、今回、紹介しようと考えたのは、在宅での介護をする時の家族介護者の気持ちだけではなく、施設に入所した後も、頻繁に通っている「通い介護」を続ける介護者が、どんな思いでいるのかも、かなり正確に率直に残していてくれているからでした。

 介護保険以前の介護施設の記録としてだけではなく、そうした現在にも通じる家族介護者の気持ちを表現してくれた作品としても、貴重なものだと感じました。

介護者と、周囲の家族とのギャップ

 著者には、介護が必要な母親。兄と、父親と、息子がいます。

 主に、母親の介護は著者が関わり、10年になっていました。そして、著者は、限界を感じていたのですが、周囲の思惑とはギャップがあったようです。

 父や兄の言う「どうしようもなくなる」というのが、どういうことなのか。それがいつの時点なのか判断がつかなかった。父が母の介護に疲れて倒れ入院でもした時か、私が仕事をできなくなり無収入になり食べていけなくなった時か、それとも親と同居する私がすべてを放り出して、こんなことをやってはいられない、これからは私の好きに生きさせてもらいます、と家を出ていった時なのか。

 その介護の年月では、実際の介護負担だけではなく、気持ちの不安がふくらむだけのようでした。

私自身の将来への暗澹たる思いだった。母の在宅での介護はすでに十年にも及んでいた。それに伴って父も老いていった。このまま、私の人生を親の介護に注ぎ尽くし、仕事も十分にできず、別の人生の選択も許されずに自分もまた老いてゆくだけなのか。そんな私の嘆きが、当然の思いなのか、自分の立場ばかりを考えた身勝手な思いなのか分からない。が、なんとか、我が家の介護の方法を変える突破口を見出したい、このままずるずると破綻に向かってなだれ込めば、私の心身が壊れる、そう思っていた。

 だが、それだけ深刻な状況であるから、母親を施設に入所してもらうように動き始めたのですが、その理由に関しては、生活をともにしている家族でさえ、実際に介護の当事者とは、その気持ちに大きい隔たりがあったようです。それ自体が、さらに負担感につながっていく様子は、今でも、あちこちの家庭で見られることだと感じました。

 長年一緒に暮らしていた息子でさえ、この選択が母親の私にとってのっぴきならないものだったとは気がついていないのだ。皆が私の気まぐれに振り回されている、と感じているらしかった。思わず吐息が出た。日常に介護を抱えて心理的に拘束されて暮らすことが、どれほど葛藤に満ちたものなのか。一日たりとも安らぐことがない。それは、仕事の大変さとは異質のもので、日々、自分の他者への誠実さや優しさや忍耐力が問われ続ける。つまりそれは、日々、誠実でもない、優しくもない、こらえ性もない自分に向き合い続けることで、その状況に長年心身をさらしていると本当に傷つき果てるのだ。しかも、相手は愛憎の深い肉親であり、さまざまな思いが絡み合っていて一筋縄ではいかない。

「通い介護」の思い

 個人的には、施設入所などの後でも、頻繁に施設に通う場合は、その負担感や、消耗具合から考えても、それは「介護」であるのだから、「通い介護」と名付けた方が、より介護者への理解が進むのではないか、とずっと伝え続けてきました。

 その様子は、この作品でも、例えば、周囲の理解のなさも含めて、書かれています。

 ところが、なんとか入院できたその日だった。母を診察しにきた医者が言った。
「こうやって親を病院に入れてえ、家族がラクをしようってわけね」
 その一言に私は打ちのめされた。私が男だったら、その医者をその場で殴り倒すだろうと思った。一日置きに父と交替で片道二時間近くかけて病院に通うのは、在宅で時間を惜しむように夜中まで仕事をしている私には、介護とはまた違う大変さがあったのだ。

 さすがに、ここまで露骨にひどいことを言う医療者は少なくなったと思うものの、それでも、施設に入所した時や、病院に入院した時点で、介護が終わったとみられる認識が、いまだに少なくないので、口に出さないだけで、「通い介護」への理解はまだ進んでいないかもしれませんが、介護保険以前でも、その負担感は、変わらずに続いていたように思います。

 特に、施設入所後、母親の容態が思わしくなくなった時から、その負担感の質自体が、また変わってきたように書かれています。その文章は丁寧で正確で、しかも、伝わり方が強い表現になっているように思いました。

 どんなに努力しても報われない。日々悪くなることがあっても、もうよくなることはない。母のこの現実を受け止めなければならないと私は気づいてはいた。が、彼女の容態は不思議なほど落ち着き、私は永遠にその状態が続くと思い込むことで平常心を保っていた。
 それでも、これまでのように家事や介護をしながら先の人生を切り開くようにしては仕事に集中できなくなっていた。パソコンの前に座ると頭痛がした。
 仕事などどうでもいいように思われた。なにかにつけ無力感に襲われた。そもそも明日のことが考えられない。いや、考えると苦しいので無意識にそれらを自らに禁じているわけで、この明日からそむけるという日々の暮らしは、人のなにかへの意欲を根本から喪失させる。どこかへ行きたいと思うのも、あれがしたいこれがしたいと考えるのも、将来の予定を立てるのも、「ベッドで一人、横たわっている母」のことを思うと罪悪感に苛まれる。それらは母を失うことによってしか得られない私の欲望であるから、自分の未来を考えることは頭の中で母の死を想定しているように思えて、苦しくなるのだ、介護者を襲う底をつくような深い深い疲労感は、この「欲望の無意識な禁止」による長年の心身の消耗によるものにちがいなかった。これは日常に介護を抱えているものでなければとうてい実感できない心境だった。              
 私は母のいるホームに入り浸り、うろうろとする日々を送っていた。  

 在宅介護だけでなく、施設入所後の、家族介護者の気持ちを理解したい方には、よりおすすめできる本だと思いました。

 介護者の負担や負担感自体は、介護保険以前も、介護保険以後も、変わらないものがあると、感じられるのではないでしょうか。

 今回は、以上です。




(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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