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『「介護時間」の光景』(109)「ロッカー」。5.16.

 いつも読んでくださる方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2008年5月16日」のことです。終盤に、今日、2022年5月16日のことを書いています。


(※ この「介護時間」の光景シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況を書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)


2008年の頃

 1999年から介護が始まり、2000年に、母は入院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。

 土の中で息を潜めるような生活が続き、だんだん慣れてきて、4年が経つ頃、2004年に母にガンが見つかり、手術し、いったんは症状はおさまっていたのですが、翌年に再発し、それ以上の治療は難しい状態でした。

 そして、2007年の5月に母は病院で亡くなりました。

 介護が必要な家族は、妻の母親である義母一人だけになりました。義母がずっと住んでいる家に同居し、妻と私が介護を続ける毎日は変わりません。

 その当時で、要介護3の義母は、耳は聞こえず、1日中、ほぼベッドの上にいるだけの生活なのに、食欲はあり、気持ちも元気でしたが、母が病院で亡くなった頃、介護の負担が重くなってきていて、妻がそのことで泣いたりしていました。

 介護が必要な家族が一人になったことで、仕事を始められるかも、とひそかに思っていた時でしたが、気持ちの中で無理だと思い、仕事のことは諦めて、介護に集中しようと思いました。

 義母の介護を、妻といっしょにやっていかないと、妻が過労で、先に死んでしまうと感じていたからです。私は心臓の病気を抱えていましたが、妻も介護の途中でぜんそくになってしまっていたせいもあります。

 今までと違って、私や妻が、ほぼ全面的に排泄介助をするように介護体制を変えざるを得なくなっていました。昼間は主に妻が連れていき、夜間は、午前3時くらいまで私が担当。そして、午前7時から、また妻にみてもらうようにしました。

 義母の年金や、母が残してくれた貯金などのおかげで、あと何年かは介護に専念する生活が出来そうでしたから、恵まれていたのかもしれません。それでも、「過労死」や「介護死」をしないためには、2人で本当に力を合わせないと無理だと思うような状況は変わりませんでした。

 義母の介護負担が重くなった頃に、それに気を使うかのように死んだ母のことを思うと、また何ともいえない悲しさのまじった気持ちになったりすることもありました。

 1999年から2007年までの8年間は、病院と家の外側は、まるで砂漠のように、どこか自分と関係ないような気持ちでいました。それが、母が亡くなってから、自分で視野を狭くしていたのかもしれないと思うようになり、しばらくは「病院へ行かなくちゃ」という気持ちが続きましたが、少しずつ、通わない介護生活に慣れていき、以前よりも人に会おうという気持ちになっていきました。

 その頃のメモです。

2008年5月16日

『今日は、同じ仕事をしていて知り合って、今もライターをしている人に10数年ぶりに会い、いろいろ話して、やっぱり楽しかった。

 でも、それでも、介護の話への反応がやっぱり薄かったり、もらったメールの中の「介護のホームページ」の中の「社会参加」という言葉がなんだかひっかかったり、生きている世界が違う感じはした。

 介護の日常のことが通じていなくて、改めて嫌になり、それを妻にぶつけてしまい、妻も寝不足にしてしまった。申し訳なかった。

 でも、人に会えるようになったことは、うれしかった』。

ロッカー

 お金が戻ってくるロッカールーム。

 換気のため、やたらと強めの風がずっと吹いている。

 ロッカーのカギのプラスチックの番号の札が、揺れて、一斉だけど微妙にバラバラに軽い音をたて続けていた。

                       (2008年5月16日)


 以前から、介護者の心理的支援をするために臨床心理士になろうと考え、大学院を受験しようと思っていたが、この頃から本格的に勉強を始め、2010年に合格し大学院に通った後、2014年に臨床心理士になった。幸いにも、介護者相談も始められた。

 義母の介護生活は続いていたが、2018年の年末に、義母が、103歳で突然亡くなり、急に介護が終わった。2019年には公認心理師の資格も取得した。

 自分自身の体調を整えるのに、思った以上の時間がかかり、そのうちにコロナ禍になった。


2022年5月16日

 雨が降っている。
 梅雨に入ったのではないかと思えるくらい、最近、雨が多い。

 昨日は、図書館へ行って、本を返して、また借りてきた。
 妻は、最近、読んだ本が面白いと言っていたので、同じ作家の本を借りてきた。

 すでに新しく借りてきた本も面白いらしい。

実家

 首都圏に実家があって、父が亡くなり、母も亡くなり、今は空き家になっている。
 それでも、いろいろとあって、まだその場所にあるので、その「管理」のために、時々、実家に行っている。

 草や樹木は、何もしなくても茂ってしまうので、刈らなくてはいけないし、家もそのままだと痛みが早いので、空気の入れ替えもしなくてはいけない。そんな細かいことなのだけど、それでも、ふと気になることがあって、それは心配といっていい気持ちになる。

 松の木が高く伸びてしまって、電線にかかったらどうしよう。
 雨が降って、知らないうちに雨漏りをしていないだろうか。
 家のどこかに、またハチの巣が出来ていないだろうか。
 変な虫が湧いたりしないだろうか。

 そんな心配をしながら、そろそろ実家に行かなくてはいけないし、その近くのお墓参りもしないと、と思いながら、今日行こうと思っていたのに、これだけ雨が降っては庭の作業も、空気の入れ替えにも問題があるから、今日はやめて、別の日にしようと思う。

 最近、出かけようとすると雨が降る気がする。

コロナ禍

 国内で、新型コロナウイルス感染症のために亡くなった人が3万人を超えた、と知った。

 しかも、今年になって1万人増であり、高齢者中心ということなので、介護者相談に細々とながら関わっていると、そんな立場でも、危機感は続いている。

 デイサービスも、一時期はかなり中止になったという話も、家族介護者の方からも聞いていたが、今は、さまざまな対策を取りながら、続けているところも多いのだけど、利用者の方々も、その家族の方々も、施設の関係者の方々の緊張感も不安感も、おそらくはそれほど減っていないと思うと、やはり、もう一度、コロナ感染への対策は、国のレベルで再検討してほしいと思える。

 ここ数年、災害時には「命を守る行動を」という言葉が繰り返される。今回のコロナ禍は、災害レベルであるのだから、「命を守る行動」は、行政でも改めて取り組んでほしいと願ってもおかしくないと思うのだけど、そんなふうに考えるのは少数派になってしまっているのだろうか。




(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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