就労支援日記㉕~「生きる意味への問い」~
昨年に引き続き、今年もこの会合(不登校、ひきこもりの当事者・家族・支援者の会)にお招きいたしまして、ありがとうございます。
前回は『家族の役割/家族の中の役割』というテーマでお話させていただきました。この前のときは、講演の後の相談時間の方が本編という感じになりましたね。やはり僕らのような立場だと、守秘義務がございますので、不特定多数の方がおられる講演などですと、どうしてもおおざっぱな話しかできません。とりわけ前回はテーマが家族でしたから、誤解のないように、それでもしっかりと伝えるべきことは伝えないといけないという、やや引き裂かれた感じでお話させていただきました。
じゃあ、今回のテーマはどうしようかということですが、主催者の方から、いま一番お話したいことでいいよ、ということでした。そう言われると、それはそうで、何を言っていいのかまたまた困惑したわけですが、ならば率直にお話したいこと、一番根源的なことだと思っていることをお話させていただきます。
障害者の就労支援の仕事に携わってから、はや20年近く経ちました。たくさんの方と接する機会を持たせていただいたわけですが、ここ最近つい立ち止まってかんがえてしまうことがあります。
それは「私たちが経験する苦しみの中で、最も強烈な苦しみは何だろう」ということです。
就労支援の現場には、職場の人間関係や目的意識の喪失、健康上の不安や家族内の葛藤など、じつにさまざまな相談事がやってまいります。たいがいの相談事は、こう言っては何ですが時間が解決してくれることが多い。下手にアドバイスをするよりも、利用者さんのお話を聞きながら、時が過ぎるのを待つような感じの方が、状況が良くなることがけっこう多いんですね。
しかし、時間が解決してくれるような苦しみとは、なにか根本から異なるような苦しみがある。それは、“自分には生きている価値がない”、“この先、生きていても楽しいことなんかない”、“なんために生きているのかわからない”という、自分の生きる意味、そのものを問わざるを得ないような苦しみです。
自分がいったいなんのために生きているのかわからなくなる。これこそ、僕たちが経験する中で、最大の苦しみなのではないかと思うのです。
ところが、この「なんのために生きるのか」という問いに対して、僕たちの社会はほとんど正面から応えようとしてこなかった。というのも、この問いは、煎じ詰めていけば、宗教や哲学、文学が主題としてきたことだということにたどり着き、とりわけ宗教はこの問いに応答するためにこそ存在しているのだということに帰着していくからです。
しかし、ここで大きなもんだいが起こる。戦後社会は、戦前の国家神道の反省から、日常生活からきょくりょく宗教的なことがらを追放してしまったのです。「宗教をやっている人は弱い人だ」とか「宗教をやっている人はあぶない人だ」という言い方がふつうになってしまっていますよね。宗教の話題になったときは、自分は無宗教ですといっておけば、まず無難に過ごせます。
しかし、僕たちはなんらかの困難や挫折を経験するたびに、やはりそのつど“自分はいったいなんのために生きているんだろう”と、問わざるを得ない。しかし宗教的なやりとりはできない。そこでこの問いに対して戦後社会が用意した答えが、「カネと世間体(狭い世界での人間関係)」だったのです。その典型が、人間は学校に行って、仕事をしていればよい、という人間観だと思います。学校に行くのも、将来まっとうな仕事をしてお金を稼ぐことですから、とにかくお金を稼いで、後は周囲の人から冷笑されないようにしろ、煎じ詰めれば戦後社会の基本的な価値観は、これだけだったと思います。
そうすると例えば子どもが不登校になると、この価値観は一気に揺らぐわけです。戦後の日本社会の基本的価値観に、まっこうからぶつかってしまっているわけですから。だから大人は、とにかく動揺する。自分達が歩んできた地盤そのものが、グラグラと音を立てて崩壊していくような感じになる。
不登校を経験された利用者さんによると、親御さんから“お前なんかまともな大人になれない”と言われたので、“学校に行っていると、自分がなんで生きているのかわからなくなる”と答えたら、“そんなことを悩めるだけ余裕がある証拠だ、もっと真剣に勉強をすればそんなことを悩む時間がなくなる”と言われたそうです。別にこの親御さんを非難しているわけではありません。戦後の日本社会は、この答えしか見い出せないんです。
そうなると、こんな問いを発する人は、ふつうの人にとって手に負えない人という認識になっていく。ここで登場してくるのが、カウンセラー、セラピスト、精神科病院、心療内科。
「生きる意味への問い」は、いつしか「心の病」になってしまったのです。
精神疾患、ひきこもり、不登校や家族の介護など…、僕たちはさまざまな苦悩と直面し、自分の生きる意味を見失ってしまう。しかしいわば「生きる意味」を宙づりにしたままでいる僕たちの社会においては、生きる意味を求める心は真空のようなまま生きていかざるを得なくなる。
しかし人間は、「真空の心」のままで生きていけるほど、強い存在ではありません。「真空の心」を満たすために、あちらこちらからさまざまな言葉(思想。陰謀論も含む)を拾い集め、心を埋め合わせようとする。そして次第に「真空の心」は刺激的で、反動的で、かつ過剰な言葉を求め、それらの言葉で心を染め上げ、帰結的に「思い込み」に満ちた心へと変貌していきました。
「思い込み」に満ちた心は、より思い込みを強くする言説を求めるため、同じ意見にのみ耳を傾け、異なる意見を排除する傾向となる。
まさにいまの日本社会が到達した場所にほかなりません。
では、どうすればいいのでしょうか?
いま一度、「生きる意味」をふつうに語り合える、シラフで語り合える場を地道に構築していく以外に、方途はないような気がします。
そういった点では、この会のご活動はとても貴重な場所だと思います。今日もこの後、お話合いの時間があるかと思いますので、とても楽しみにしております。
では、ご清聴、ありがとうございまいた。
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