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芸術と精神医学(3):モテすぎた男?エドヴァルド・ムンク

皆様こんにちは!鹿冶梟介(かやほうすけ)です。

シリーズ「芸術と精神医学」も今回で3回目となりました。

今回紹介する芸術家は、「叫び(The Scream)」で有名なエドヴァルド・ムンクです。

ムンクはノルウェー出身の画家で、ポスト印象派時代の象徴主義や表現主義の代表的作家です。

そして前回紹介したゴッホ同様、ムンクも"悩み多き人生"を歩み、しかも精神疾患に罹患しておりました…。

では、早速ムンクの生涯作品を精神医学の観点から、ご紹介しましょう!

【ムンクの生涯と病歴】

1863年 (0歳) ノルウェーにて、軍医クリスチャン・ムンクと妻ラウラ・カトリーネ・ビョルスタの第2子・長男として誕生

1868年 (5歳) 母が結核で死去

1877年 (14歳) 姉ソフィエが結核で死去

1879年 (16歳) クリスチャニア工業学校に通うが、リウマチ熱のため欠席が続き退学

1880年 (17歳) ノルウェー王立絵画学校(現オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学。

1883年 (20歳) クリスチャニアの産業美術展にて作品を初出品

1885年 (22歳) 人妻ミリー・タウロウと不倫の関係になり、思い悩む。この頃に「病める子」を作成。

1889年 (26歳) クリスチャニアにて初個展。パリに留学し、レオン・ボナの画塾に通う。父が死去

1890年 (27歳) 2度目のパリ留学に向かう途中、リウマチ熱が再発。2ヶ月入院。

1891年 (28歳) 人妻オーダ・クローグに誘惑され、不倫の三角関係に巻き込まれる。作品「メランコリー」はこの時に人間関係を描いている。またこの頃、妹のローラが精神病(統合失調症)を悪化させて入院。精神的に参ったムンクはカジノで奨学金を使い果たしてしまう…

1892年 (29歳) ベルリンで開かれた個展が1週間で打ち切られる(「ムンク事件(ベルリンスキャンダル)」)。この頃、女性作家ダグニー・ユールと恋仲になる(ユールはムンクの代表作「嫉妬」のモデル)。

1893年 (30歳) ベルリンにて劇作家アウグスト・ストリンドベリらボヘミアンたちと交流。「生命のフリーズ」の中核をなすこととなる「叫び」「吸血鬼」「マドンナ」などの代表作を発表。

1895年 (32歳) 弟アンドレアスが死去。このころの作品は「死の床」など不吉なものが多かった。

1897年 (34歳) オースゴールストランに小屋(サマー・ハウス)を購入。油絵の製作を開始。

1898年 (35歳) トゥラ・ラーセンという女性と交際するようになる。

1902年 (39歳) 求婚を断れれたラーセンがストーカー化。銃の暴発事件が起こり、左手中指の一部を失う。この頃から不安が高まり、アルコール依存症に陥る。

1908年 (45歳)アルコール依存症および麻痺性痴呆の診断にて、コペンハーゲンのダニエル・ヤコブソン博士の医院に8カ月入院。このとき電気療法を受ける。

1909年 (46歳)退院して、ノルウェーに帰国。退院後の作品の色合いは、入院前と違っていた

1916年 (53歳) 大学壁画完成。クリスチャニア郊外のエーケリーに家を購入。晩年のほとんどの時間を過ごす。

1926年 (63歳) 妹ラウラが死去

1937年 (74歳)ドイツにて、ムンクの作品82点が頽廃芸術として押収される。ノルウェーの国立美術館にムンクのための展示室がオープン。

1940年 (77歳)ナチスがノルウェー占領。全作品をオスロ市に遺贈する遺言状を作成。

1944年 (80歳)エーケリーの自宅にて死去


【ムンクのうつ状態を表した作品】

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元国立大学准教授が、精神医学の観点から芸術を語り尽くします。

魂(精神)と至芸の交錯する点に、表現の極みが顕現する。 人はそれを芸術と呼ぶ! 本マガジンは、精神医学の観点から芸術を語り尽くします。 さ…

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