見出し画像

「世界観」はライティングだ

 世界とは2通りある。それらはフィクションとノンフィクションだ。これらは明確に異なる、ある1点が存在する。それは「普遍性」だ。すなわち、あまねくすべてにわたって世界観が存在しているというのがノンフィクション=現実であるのに対して、見えるところ、考えられる限界にまでしか世界観が存在しないのがフィクション=虚構である。

 現実的世界観は、別に私達を考慮せずに成立している(人間に都合の悪いものもある)のに対して、虚構的世界観はそうではない。それは人間のためにある世界観(設定)だから、逆説的に、そうではないものは、虚構的な世界観には含まれない。
 そして一般的に、世界観というとこのフィクションのものを指す。創作物にしか「世界観」と呼べるものはないと普通は考えられているからで、また、世界観とは作者の頭で考えられるもののみを指すとも思われているからだ。

 実際のところ、世界観がこの現実世界にもあることはひとまずおいておくとして、虚構にせよ現実にせよ、世界観にはそれを強固に立ち上がらせる、なくてはならない1つの要素がある。
 およそ世界観と呼べるものに欠かせないそれとは、つまり、「ライティング」だ。
 ライトのことだ。明るさ、暗さ。どのようにして色を見分けられるのか? そもそも色がどのように表現されているのか? どこが明るくてどこがそうでないのか? それを誰がどのように調整しているのか。その根拠と理由は?
 ……こういった様々な疑問に繋がるライティング、つまりその世界の全体的な明るさや暗さこそ、まさに世界観の重要な1要素だ。現実において、ライティングは主に自然の法則によって成り立っており、人間はそれを克服しようとしてきた歴史がある(火の発見)。
 一方でフィクションにおいては、それは明確な視覚情報として表現することもあれば、説明文や、セリフ、態度、出来事などの質や種類、時代背景によって表現することがある。

 物理的な明るさという意味にとどまらず、ライティングはその世界の「雰囲気」に直結する。明るい、暗い、という表現のひゆてきな意味だ。だから、それはその世界にテーマや、コンセプトや、ジャンルを与えることになる。全体的で一貫した何か。その設定に繋がる。
 むろん、虚構的なライティングは、それは本当に全て・細部にわたるわけではない。ただ見えるところ、わかるところ、考えられるところには張り巡らされた明るさが、作品の世界観を為していく。それが作品を見る者に伝わるのなら成功だ。それが世界観である。そう、胸を張って言える。

 どうあれ、世界観とは「ライティング」を中心に成り立つ、1つの明度である。あるいは彩度でもあるのかもしれない。どちらにせよ、古来より暗闇を恐れ、視覚を発達させ、感覚をそれに頼って来た人間にとって、これほど重要なものはない。
 だから、この世界観――雰囲気というものが現実のものだろうが虚構のものだろうが、その明るさと暗さによって決まっていくというのは、当然の話なのである。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

※関連note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?