かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがあり…

かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがありましたら幸いです。 ご連絡は onamomi.kuron@gmail.com まで

マガジン

  • キャラクター論

    キャラクターそのものをどのようにいじくるのか、設定をどうするのか、なにが最適なのか……そういったことをテーマにしたnoteが集まっています。

  • 物語再論

    物語の立ち上がり方、成り立ちの仕方を、順序立てて際者から説明する。

  • ステラの事件簿(更新停止中)

  • 短編小説

  • キャラクター論:キャラの分類

    キャラクターを2軸で考える

最近の記事

接続は正義に、切断は悪に。

 現代は接続の時代を迎えて久しい。  これはどこにいるどんな人でも等しく繋がりを作れ、交流できることを意味する。それによって様々な価値観が混ざり合い、人はさらに進化した。多くのアイデアが持ち寄られ、衝突し、基本的にはより良くなったはずだ。  でもすぐに、問題が起こる。  この“接続”が強制であることだ。あるいは接続しないことが、生活に支障を及ぼすほどに不利になることだ。私たちは数十年の接続の時代に慣れ親しみ、それを当然とし、前提としてしまった。そのような生き方のみを普通と考え

    • 頼れない。それは何より、プライドのため

       人に頼れないのは、責任感のためでも、迷惑をかけることへの申し訳なさのためでも、ましてや何を頼れば良いか分からないためでもなく、プライドが許さないからである。  どんな人にでもプライドはあって、それは自分を大きく見せたいという欲望だ。この欲望は協力よりも独力を信奉していて、1人でやることによるメリットを過大評価して考えてしまうのだ。  結果、複数の人の協力によって何かが成し遂げられることよりも、1人の力でそれができることを重要だと思い込む。たとえ協力によってより良く、より早く

      • 「今」の自分のために、「未来」の自分が死んでいく

         目先のことばかりにとらわれるのが良くないのは、なんでも自分中心に考えるようになってしまうからだ。自分さえ良ければいい。誰しもそういう考えは持っているものだが、それを抑えられなくなってしまうと、誰かと協力したり、情報を共有して改善したり、自分以外の視点に気づけなくなっていく。  それはつまるところ、成長が止まるということで、アップデートできなくなるということ、進化を放棄するということに他ならない。  人類はたった1人で進化してきたのではない。  人が今までに歩んでこれたのは

        • 頑張りを見つめすぎずに頑張って

           頑張れば頑張るほど、その頑張りは報われない。いくら力を入れて努力しても、そうするほどに、私たちは報われない空振りを続けることになる。  ならば、頑張ることは無駄なのか?  そう思っても、頑張るのをやめることはできない。もし完全にそうするのなら、私たちは死ぬことになるからだ。少なくとも生きるために、私たちは結局のところ、何かを頑張っている。  つまり問題なのは、頑張ろうとして頑張ってしまうことなのだ。なぜなら頑張るのは手段であり目的ではなく、頑張るために頑張ることは、結果に

        接続は正義に、切断は悪に。

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        • キャラクター論
          62本
        • 物語再論
          1本
        • ステラの事件簿(更新停止中)
          11本
        • 短編小説
          58本
        • キャラクター論:キャラの分類
          2本
        • オリジナリティへのごかい
          6本

        記事

          失敗しただけで悲しい。成功しただけでは喜べない

           失敗は、それそのものが怖い。それなのに成功は、それそのものが嬉しいのではなく、その先にあるメリットがなければ喜べない。  だから私たちは「行動」ができない。  失敗するリスクばかり気になって、成功の可能性を見逃す。成功に繫がる行動が成果になるが、失敗はそれだけで全てを帳消しにするからダメだと思ってしまう。  やる気などという精神的な話ではなく、私たちが行動を起こせない大きな要因の1つは、まさに失敗と成功への印象による。失敗はそれそのものを嫌がる。成功は成果に繋がらなければ

          失敗しただけで悲しい。成功しただけでは喜べない

          「信じる」は客観ではなく主観

           私たちは目に見えないものを信じないが、目に見えないことそのものは信じている。そして目に見えないものを信じることを、ともすればバカバカしいと思う。  それよりももっと、目に見えるものを信じ、はっきりしたものを武器にし、明確に誰にでも分かるものこそ正義だと信じてやまない。  誰にでも「そうだ」と思われているものは、確かに、この世界での「普通」である。  でも、そのことがそのまま、それを信じていい理由にはならないはずだ。即ち、明確に誰でも分かるものが、本当に目に見えているのか、

          「信じる」は客観ではなく主観

          ファンタジーこそ現実であれ

           ファンタジー(≒ 空想物語)に「絶対こうでなければならない」はない。それは自由だ。異世界でも、和風でも、宇宙でも、どんなキャラが出ようが出まいが、なんだっていい。  でも1つだけ、それが「面白いファンタジー」と言われるためにはなければならないものがある。  もしかして、隣の家に主人公が住んでるのかも……そう思わせる「現実性」だ。この世界との繋がりと言ってもいい。ファンタジーを楽しんでいる最中にも、そのキャラクターたちが「今もどこかで何かをしている」。そう思える説得性。

          ファンタジーこそ現実であれ

          掻けば掻くほど、疑えば疑うほど

           疑いとはかゆみに似ている。  この世は疑いだすとキリがないので、疑えば疑うほど、あらたな疑いが出てくるものだ。私たちは何か不可解なことが出てくると疑いを持つが、その目的は真実を探すことではない。  なぜなら、疑いとは個人的なものだからだ。  かゆいところに手が届かない時、それは文字通り、その人の手が届かないということになる。関節が硬いのか腕が短いのか、かゆいところが分かっていないのか。ともかく、その人がかゆいと感じたところに、その人の手は届かない。  つまり個人的だ。

          掻けば掻くほど、疑えば疑うほど

          プライドは強くてもいいけど、せめて柔らかく

           プライド、プライドと人は言う。  それがあろうがなかろうが、軽かろうが重かろうが、 弱くても強くても、それは全部がプライドだ。  プライドについて多くの思われていることは、プライドなどなければ、人は生きるのに苦労しないということだ。どんな困難がやってきても手を変え品を変え、生のための選択肢を見つけ出すことができる。  なぜならプライドとはこだわりであり、選択肢を自ら狭めることだからだ。狭めることによって集中力を高め、自分が決めた高い目標に手を届かせる、それがプライドの最も主

          プライドは強くてもいいけど、せめて柔らかく

          稼げてるからって、やめたいものはやめたい。それは

           仕事をやめるのは、仕事とお金だけの関係になってしまった時だ。  仕事がつまらなくなるのは、その仕事が生活のための手段だと気づいてしまった時だ。  むしろ仕事は、仕事になってしまったらつまらなくなるものなのである。仕事は楽しくない。仕事だから。でも、楽しくてやめたくならない仕事は、それと意識していない時間こそが最も楽しくて、お金のことも気にならないものなのである。  お金や楽しさを気にしてしまうから、仕事に仕事感が出るのか。それとも仕事だと思うからお金や楽しさが気になるのか

          稼げてるからって、やめたいものはやめたい。それは

          “違い”と“優劣”は違う

           自分の周囲を見回してみると、それだけで1つくらいは、自分と違うものを見つけられる。そしてよく見なくても、1つと言わず違うものはたくさんあって、見れば見るほどそれらは星の数ほども存在することに気づくはずだ。  次に、周りではなく記憶をたどって、たとえば「人」を思い浮かべてみる。友達や同僚、親きょうだい、親戚、タレントや著名人、空想上の人物…どれもまったく違うはずだ。そうだと私たちは思っている。  思い浮かべた人たちは、自分よりも「下」だろうか、「上」だろうか。あるいは劣って

          “違い”と“優劣”は違う

          本当の意味で、お金に目をくらませないように

           お金を出せば大抵のことはできるのに、何をしてもお金を稼げるわけではない。大抵のことにお金を払う人がいるはずだが、お金を手に入れるためにはそれなりの努力が必要だ。  つまり、もし「お金」が答えのなぞなぞを出すのなら、「払うのは簡単で、貰うのは難しいものなーんだ」となる。なんの誇張もなく多くの人がそう思っていて、そして実際にそうであるのがお金なのだ。  だから、基本的にお金というのはどんどん減っていくもので、なにもしなければ無くなってしまう。しかも、そのスピードは速くなりやす

          本当の意味で、お金に目をくらませないように

          「できない」ものを軽々に手放すな

           誰もができないことは無くした方がいいと思っているが、できないことそのものも「自分自身の能力」であることは、あまり意識されていない。  つまり、できないことをなくすことは、自らの能力の一つを捨てることであるのを、私たちは、できないことをできるようにする際にはよく考えるべきということだ。  それが、もとに戻せるものなら問題がない。しかし、一度できるようになったら二度と「できない」ことに関しては、その失われる「できない」をもっと惜しんだ方がいいのである。  別に、できないことに

          「できない」ものを軽々に手放すな

          後回しはよくないけど、その効能は。

           やりたくないことは後回しにしても良いが、ここで問題が3つ浮上する。 ①後回しにしただけで、やらなくて良くなったわけではない ②やりたくないという判断が間違っていることかある ③人は時間を遡れず、「その時」にしかできないことがある  つまるところ後回しにするというのは、主観的な判断で、タイミングを逃し、結局はやることになる、という行動なのである。だからよく考えなくても、後回しはただのデメリットを背負う行為であり、いいイメージはないし、いい結果を生むわけではない。  ならば

          後回しはよくないけど、その効能は。

          こだわりは気持ちがいいからやめられない。依存する

           こだわりにはキリがない。だから利益を考えればそれは「ほどほど」でやめるべきだ。その場合においては、こだわりなど無駄でしかない。無駄であり、邪魔であり、甘えである。  しかし私たちは、もしそれが分かっていたとしても、こだわりを持つ。しかもそれが悪いことだと思わない。自分のこだわりを自分でストップさせられる人などおらず、誰か他人に止められてはじめて、それがこだわりだと気づく。  こだわりは多くの時間とお金を奪うのに、なぜそうなってしまうのか。こだわればこだわるほど足踏みしてし

          こだわりは気持ちがいいからやめられない。依存する

          誰かの危機感を、何かと否定してしまう危機感

           人は何かをせねばと焦る時に“危機感”を覚えるが、それは必ずしも「何か」を明らかにするわけではない。明確な答えなど持ち合わせておらずとも、人は少なくとも“今”が肯定できないということに敏感であり、結果として覚える危機感に突き動かされてしまうのだ。  突き動かされても「何か」に繋がるわけではないかもしれない。なんの解決にもならずに、それどころか事態を悪化させるかもしれない。しかし、危機感を覚えたという事実には、嘘偽りはないのである。私たちは自分のそれを他人に否定されたくはないし

          誰かの危機感を、何かと否定してしまう危機感