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キャラクター論

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キャラクターそのものをどのようにいじくるのか、設定をどうするのか、なにが最適なのか……そういったことをテーマにしたnoteが集まっています。
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「敵キャラ」はなぜ、テンプレ的に主人公の邪魔をする?

 フィクションであるからには敵は敵でなければならない。「敵キャラ」はそういうキャラクターとして成立するが、「味方キャラ」にはそういう決まったイメージはない。  要するに、ステレオタイプの悪役というのは存在するが、ステレオタイプの味方というのは存在しないのだ。主人公を中心としてただ役割が違うだけなのに、なぜ、敵には「敵キャラ」のテンプレート(おきまり)があるのだろうか?  これはひとえに、敵とは「目的」であるからだ。あるいは「障害」といってもいい。  たとえば主人公がいて、

日本語にひとつ特有の「語尾」の面白さ

 日本語で大事なのは圧倒的に語尾だ。それは他の言語とは一線を画す特性で、大きな違いである。だから、例えば日本語が用いられた創作のクオリティというのは、まずもって語尾に依拠しており、その、想像力を掻き立てる語尾というものこそが、日本語を扱う長所だ。  裏を返せば、その語尾にこだわれない時、日本語を紡ぐ意味は失われていく。いわば色褪せた日本語である。日常会話ひとつとっても、その人に特有の話し方や言葉の扱い方、そして語尾というものがあるのに、その個性を捨て去ってしまうのなら、それは

悪役はとてもシンプルになった。いつからか

 複雑な悪役は流行らなくなった。単純な悪役こそ志向。悪はシンプルに悪であるべきであって、その背景に汲み取るべき事情などいらない。どんな理由があろうとも悪は悪なのだから、知る必要がないのだ。ならば最初から事情などなくていい。  本来、善悪問わずキャラクターはキャラクターだ。そこに違いはない。主人公の仲間だろうが敵だろうが関係のないモブだろうが、それぞれの生い経ちがあって、それぞれの生きた意志がある。それが当たり前だ。  でも、そんなの面倒である。そんなことを知るのは無駄だ。だ

最強キャラはなにゆえ “最強” か

 最も強いの定義は難しい。しかし「キャラ」ならそれは実現できる。古今東西様々な作品には「最強キャラ」がいる。その世界の中で語り継がれ、時に恐れられ、時に称えられ、時に挑まれ、その力を振るう。  昨今では主人公としても人気だ。最強。その世界における唯一無二の力を宿し、必ずの勝利を保証し作中世界を闊歩する。その絶対的な存在感が求められている。  しかし最強キャラとは、つまり強ければ良いということではない。それでは不十分であり、最強とはそういう意味ではない。例えば武力や知力や特殊

2つの意味で私達は「応援」する

 キャラクターは応援しよう。彼らはすごいことを頑張ってやっているし、困難を乗り越えようとしているし、とにかく、何らかの形で戦っているからだ。応援されなければキャラクターは、すぐに萎れてしまう。その存在を多くの人に知ってもらうこともできなくなる。ある意味で、キャラクターは神のような存在だ。  ファンからの信仰が少なければ、キャラクターは消滅してしまう。  今、自分が好きだと思えるキャラクターを思い浮かべよう。そのキャラクターがやることを、あなたは応援しているはずだ。あなたはそ

「脳感」と「皮膚感」をキャラクターに付与する

 キャラクターがイマイチ地味でパッとせず、人気にもなりそうにないという場合、そこには脳感と皮膚感が足りていないことが多い。もしくは、皮膚感はあるが脳感が足りていないことが原因としてあり得る。  この、脳感とはすなわち「論理性」だ。ロジックを持ち、因果を捉え、当然に納得できる言動を誰かに説明できるということである。  そして皮膚感とは「情緒性」だ。フィーリングを持ち、心を捉え、即座に感情を表して共感させることができるということである。  どのようなキャラクターも脳と皮膚でで

主人公の仲間は2人がスタート

 主人公の仲間は、最低でも2人必要である。  主人公の異性と同性の2人。裏を返せばそれだけでいい。なぜなら仲間とは、多様性だからだ。それは広げようと思えばいくらでも広げられる。でも、その想像には限界がある。多すぎても共感できない。主人公の交友関係があまりに非現実的すぎると、主人公に魅力がなくなってしまう。  そのため、最低限度、2人なのである。異性と同性。それが基本で、それが基礎で、それが当たり前に想像できる交友の範囲である。  主人公の周りには、最低でも2人仲間がいなけれ

「敵キャラ」はもう役割〈ロール〉を演じてはいけない

 強すぎる敵は嫌われる。何度倒しても立ち上がったり、奥の手を出し続けてきたり、法も倫理もなくもなくありとあらゆる手段を使ってきたり。現代の、漫画やアニメなどに登場する「敵」は、消費者に今すごくシビアな目で見られている。  主人公達は正義側でなければならないのに対して、普通、その反対である敵達は、まったく卑怯でずる賢く、そして理不尽なものであるはずだ。  けれど今、その前提や定義は成り立たなくなっている。なぜなら誰も、そんなキャラクターを好きになれないからだ。受け入れにくいから

過去と未来こそ、キャラクターの「今」の姿

 人間は今を生きるが、キャラクターにとってそれは「過去」もしくは「未来」である。どういうことかと言うと、キャラクターの過去や未来がはっきりしていれば、そのキャラクターの現在は自ずと決まるということだ。  過去とは生い立ちであり、未来とは目標だ。これらがあることで、というよりはなければ、キャラクターは今を生きることができない(というより、魅力的なキャラクターにはならない)。  これは人間と違い、キャラクターは作られた存在であるから、過去と未来に縛られるのである。人間ならば過去は

キャラクターにとって、性別は道具でしかない

 この世ならざるものである「キャラクター」という存在において、その全ては結局は幻にすぎない。というよりも、大前提としてキャラクターは現実の存在ではないのだから(たとえば、印刷されていればインクの集合体だし、映像ならば光の集合体、そうでなくともデータである)、どうあってもそれは、実際に生きいるように見えてそうではない。  だから、キャラクターの身に宿るあらゆるものは単なる設定などと名付けられた情報である。しかもそれは作られたものであって、言ってみればそのキャラクターに宿っている

キャラクターの「静的」矛盾と「動的」矛盾

 キャラクターには矛盾がある。全てのキャラクターは、その身に矛盾を抱えている。キャラクターとは、創作上の人格のある存在のことだ。矛盾とは、本来ある状態であるはずのものが、それを覆すような状態になることを言う。  つまり、創作上の人格のある存在は、おしなべてそれぞれ固有の状態でありながら、常にそれを覆しうるのだ、ということになる。もう少し単純に言えば、どのような人格も時として自分自身を破壊したくなるのである。  甘いものが好きなのに辛い物を食べてみたり。水の中にいなければ生き

ストーリー的には「つい動いてしまう」のが面白い

 計画通りに何かが進む。そしてそれがまっとうな方法で解決される。それはとても納得感があって、わかりやすくて、飲み込みやすい。でも残念なことに、それは面白いこととは当然に結びつかない。  物語にはこういった「当然にある」を避け、予定調和でない物事に楽しみを見出すことがある。これは即ち、「思いつき」のことだ。その、瞬発的なアイデアが大切なのである。  このことは、ストーリーそのものだけでなく、登場人物の行動にも言える。というよりも、登場人物の瞬発的な行動が、物語の予想外の面白さ

キャラクターを社会的地位で3分割する

 人間には身分というものがあるが、創作上のキャラクターにも同じことが言える。身分のないキャラクターはおらず、どんな者でも(性別、種族、出身、思想…)持っている。そして、それは設定されてなくてもそうなのだ。  キャラクターというのは人間と違い、リアルタイムでの人生を持たない。現実の人間のような成長する過程はないのだ(そのような設定が与えられるだけだ)。だからそれは、生まれた瞬間にそれである。  そのため、生まれる前のキャラクターでない限りは、それは「どういう存在なのか」が確定し

勇者パーティーは物語が始まる前から集まっている

 勇者はパーティーを作る。そこには剣士がいて、魔法使いがいて、盗賊がいて……その他様々な職種の集まりでコミュニティは形作られる。そうして彼らは魔王を倒す旅に出る。  キャラクター達は集まるものだ。それは勇者だけではない。学校の不良だって、部活だって、崩壊する世界の生き残り達だって、ヒーローだって、なんでもない普通の人々だって。  集まるのだ。それはコミュニティと言う。そうなって初めて、というよりも「集まる」そのことこそが、物語、ストーリー、キャラクター達の活動を楽しく追いかけ