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ファンタジーこそ現実であれ

 ファンタジー(≒ 空想物語)に「絶対こうでなければならない」はない。それは自由だ。異世界でも、和風でも、宇宙でも、どんなキャラが出ようが出まいが、なんだっていい。
 でも1つだけ、それが「面白いファンタジー」と言われるためにはなければならないものがある。

 もしかして、隣の家に主人公が住んでるのかも……そう思わせる「現実性」だ。この世界との繋がりと言ってもいい。ファンタジーを楽しんでいる最中にも、そのキャラクターたちが「今もどこかで何かをしている」。そう思える説得性。

 たとえば、公安や弁護士事務所、レスキューチームなど実際にある(ありそうな)組織が登場したり、実際に起こっていた事件に言及されていたり、それらの裏側が描かれていたり。
 そういう、「この世との連続的な要素」こそ、ファンタジーの面白さには絶対に不可欠なのだ。別に剣と魔法の世界だろうが関係ない。それらがある、まるきり別の世界よりも、この現実のどこかでそういうファンタジーが繰り広げられている、という方が普通に面白い、ということなのである。

 なんたって、それがある作品はワクワクする。まるで自分がそのファンタジーにいるかのような気分が味わえ、そうではないと誰も証明できない。
 もしかして、もしかして。その期待感がファンタジーをより面白くさせる。この世ならざることばかりが起こるファンタジーは、ともすれば遠い時代の歴史書を読んでいるかのように退屈だ。
 けれど「もしかして」と思う時、それは歴史書ではなく自分事になる。ファンタジーを楽しんでいる人々の日常になるのだ。それを無視などできるはずがない。無視できないということは、夢中になるということだ。

 だからそれは「面白さ」の一因である。それがあれば確実に面白いと言えるくらいに、強烈な一因。ファンタジーに絶対はない。でも、面白さが増すことはある。単純にそれが、この世との連続性。
「もしかして、隣の家に主人公が……」その期待感である。

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