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“違い”と“優劣”は違う

 自分の周囲を見回してみると、それだけで1つくらいは、自分と違うものを見つけられる。そしてよく見なくても、1つと言わず違うものはたくさんあって、見れば見るほどそれらは星の数ほども存在することに気づくはずだ。
 次に、周りではなく記憶をたどって、たとえば「人」を思い浮かべてみる。友達や同僚、親きょうだい、親戚、タレントや著名人、空想上の人物…どれもまったく違うはずだ。そうだと私たちは思っている。

 思い浮かべた人たちは、自分よりも「下」だろうか、「上」だろうか。あるいは劣っているだろうか優れているだろうか。嫌いか好きか、その理由はどこにあるのか?
 そういうことを考えてみると、驚くほど私たちは自分以外のものを、自分を基準にして、上下優劣好嫌に当てはめていることに気がつくはずだ。

 そして、これは“違い”ではけしてない。けして。絶対に。

 優劣は、上下は、好き嫌いは、違いによって生まれるものではなく、“同じ”だと思っているから生まれるものだ。自分という存在と他人がどこかで共通していて比べることができる。そう思うから、そういうものを認定してしまう。

 苦しいはずだ。他者とそうやって比べることが、どれほど問題を生むか。比べようとする心は、あれもこれも自分と同じだと考え、取り込んでいってしまうことである。
 他人を、自分に足りないものを、自分にあるものを、外と繋げて一緒にする。もし、この世の全てが“自分”だけなら、そういう苦しみは起こらないだろう。けどそうじゃない。私たちは私たち以外とともに生きていて、それぞれの違いではなく、同一視して、優劣を気にしてしまうから辛いのだ。

 それをやめることは困難を極める。無理だろう。なにせ私たちはいつも“自分”中心で、それと“同じ”か“同じでないか”をずっとずっと考えるようにできているから。
 でも少なくとも、私たちが考えている“違い”とは“優劣”ではないことを知れば、意識できれば、変に自分と比べたりせず、そんなこと無意味なのだと少しでも思えるようになって、ほんのちょっとでも、気持ちを軽くすることができるはずである。

 そう願いたい。

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