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掻けば掻くほど、疑えば疑うほど

 疑いとはかゆみに似ている。
 この世は疑いだすとキリがないので、疑えば疑うほど、あらたな疑いが出てくるものだ。私たちは何か不可解なことが出てくると疑いを持つが、その目的は真実を探すことではない。

 なぜなら、疑いとは個人的なものだからだ。

 かゆいところに手が届かない時、それは文字通り、その人の手が届かないということになる。関節が硬いのか腕が短いのか、かゆいところが分かっていないのか。ともかく、その人がかゆいと感じたところに、その人の手は届かない。
 つまり個人的だ。
 それに、別に私たちはかゆみの専門家ではないので、かゆみの根本的な解決や、ましてやその仕組みなど知ったことではない。だから、とりあえず今感じているその嫌な気持ちを解消できればそれでいい。
 これも個人的な話である。
 疑いもそれと同じで、私たちは真実など知ったことではなく、自分たちの感覚で生じた疑いに関する、単なる納得を求めているにすぎない。それは個人的な、手の届く納得を。真実などどうでもよく。

 そして、疑いもかゆみも、ずっとそれが生じなければ確かによいことだが、そんなことは不可能だと誰もが分かっている。しかも私たちは、体を掻けば気持ちがいいし、疑いを納得できる答えを見つけるとスッキリする。
 それがやめられなくて、掻けば掻くほど、かゆみを求めてしまい、疑いを解消すればするほど、その深みにはまっていくことになる。
 疑いだすとキリがない。
 その理由は、私たちが疑いを重ねるほど、それを求めるようになるせいだ。私たちは真実などどうでもよくて、単に納得できる答えが知りたい、知り続けたい、それによる快楽が欲しい。

 かゆいところを何度搔いてもかゆみが取れず、そればかりかもっと掻きたくなってしまうように、疑いも、いくら納得しても晴れないものだ。
 それどころか疑えば疑うほど、私たちは疑いの魅力にはまっていってしまう。疑うことが癖になる。誰もが信じていることこそ、疑ってやまなくなる。
 特別なことではない。私たちは誰でも、疑いから抜け出せなくなる。この世は疑いだすとキリがない。でもそうしているのは他でもない自分自身であることを、私たちは疑えない。きっとそれは、そのことを私たちがどうしたって納得したくないからだ。

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