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短編小説

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我々はすぐに消えてしまえるので

 消失、というのはごく簡単なことなのだと思った。友達からのメッセージを読み終わって、<いいよ>と返して、私は寝転がっていたソファから身を起こした。部屋はありえないくらいに散らかっている。瓶や缶は机どころか床中に散乱していて、ゴミ箱が置いてあったあたりには大量の丸めたティッシュが山になっている。一応、袋には分類して色々、スプレー缶とか、包装紙とか、使わない食器とか捨ててみたけど、それを家の外のゴミ捨て場に持っていかないと、捨てたことにはならないことに今朝気づいた。 「……明日は

品位なき生への、半分だけの復讐心。

 品位というものが感じられない世界で育った私には、品位というものがどういうのか、全く理解できなかった。捨てられないゴミの中で呼吸をし、洗われない風呂や衣類を着て過ごす。腹を満たすだけの食事をし、親との会話は罵声と叱責と暴力だけの一方的なもの。ある日この薄暗い部屋の中に大勢の大人が入ってきて、思わず顔をしかめてしまうくらいの良い匂いのする毛布にくるまれて明かりの中へと運び出されるまで、私はその「品位」という言葉とは全く無縁に、無縁ながらに、この世にかろうじて存在していた。 「

冬の自殺の肯定

「誰も何もできないからだよ」とその人は最後に言った。その日は雪が私達を凍りつかせるほど降っていて、昨日の見慣れた土色とは打って変わって真っ白になったグラウンドでは、放課後の雪合戦を楽しむ生徒達の声が聞こえてきていた。  その溌剌とした若々しい声は、淡々と振り続ける雪と空気の冷たさに濾されて、私にはとても白々しく聞こえた。それがなんの根拠もない被害妄想だとは分かっていた。でも、ここまで階段を何十段も駆け上がってきていて喉が痛いし、寒さで耳も鼻も痛いし、目の前の友人は屋上から飛び

虫のような女との結婚の話

「だからね、結婚なんて誰にだってできるワケよ」  綺麗な赤いネイル。虫の四肢のように細い人差し指と親指でつままれたスプーンをガチリとカップの縁にぶつけて、公子さんは最後の紅茶を一気に飲み干した。  よくあるチェーン店の喫茶店だった。平日だからか、他に客は少ない。夕方で窓から差し込む光の角度が変わり、仮面のように、彼女の顔には邪悪な陰影が貼り付けられている。私は思わずしかめた顔を気付かれないように、視線を暮れなずむ外に向けて、「そうですね……」と意味深なため息をついてみせた。

人身事故と非常時の怒り

 人身事故で停車した満員電車の中で聞こえてきたのは多くのため息と舌打ちだった。慌てて電話を取り出して遅刻の連絡を始める会社員。その隣の背の高い女性が、少し顔を上げてまた何事もなかったかのようにスマホに目を移す。熱気と湿気が身じろぎすらできない空間の中で渦巻いていた。冬の外気は寒く、いつの間にか電車の窓ガラスは曇っていた。多分、みんなのため息がいっそう車内を暖めたのだろうと思う。  その靄がかった窓ガラスには、こんなにも混雑した車内の人々の様々な顔が映っている。しかしみな、一様

アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。  誕生日に、親にねだって買ってもらっ

宇宙の内外および理想と実情への想い

 私は宇宙的空間とやらに理想的な思いを巡らせたことなどただの一度もないが、人々が空に憧れ、上を目指し、あのどこまでも続く星々の空間の中へ飛び込んでいきたいという欲求は、充分に理解しているつもりだった。それは人々の「内側」に、それら自身の宇宙空間があり、そしてそこに住まう宇宙人がいて、生態系があって、出来事があるのだ。その限りにおいて、宇宙はまだ人々と幸せな関係を築いている。  しかし、人間の「宇宙飛行士」という職業は、昔ほどは手の届かない存在ではなくなり、それどころか金さえあ

ガチャガチャに落ち込んで、運命と。

 高野に、何も上手くいかない気がすると正直に話したところ、連れて行かれたのは家電量販店だった。その広い1階フロアは、よく他の店でも見るようにたくさんの携帯電話やアクセサリーが売られていて、店員が呼び込みに目を光らせている。その投げかけられる声掛けをことごとく無視して、高野は俺をフロアの奥へと誘っていった。  正直、携帯電話を買い換える予定もないし、ケースも、保護シールも買い替えたばかりだ。何も言わずについてこいと言われたその背中は、俺と同い年とは思えないほど小柄で、だからこそ

濡れている身を隠した木々と、リスの温もり

 そんなつもりはなかった。  ただ、彼は押しただけだった。そのバタバタともがく後ろ足を見て、手を伸ばしたら届きそうで、人差し指で触れてみると暖かくて。  生き物は温いのだと思いだしたのはその瞬間だった。彼はその時は全身ずぶ濡れで、雨でもないのに身体を震わせながら、そろそろ走るのも限界だったから。慌てて飛び込んだ公園の低木に身を潜めて、バタバタとすぐ横を駆けていく怒声に身を縮めた。  しばらくの時間が経って、彼は低木から顔を覗かせる。ずぶ濡れだった衣服は彼自身の体温でぬるくな

やる気の出ない仕事と、嫌いな人と、好きなもの

 星の形をした風船と、水玉模様の傘と、甘くないカフェラテが嫌いなのだと、彼はガラス張りの如何にもおしゃれな会議室で力説していた。片側の壁には大きなスクリーンがあって、そこには今日の議題の資料が映っている。反対側に皆が座っており、私はそんな彼らをスクリーンの横から見ている。  つまりプレゼンターは私だ。だからそのような雑談はやめて、さっさと進行させてほしい。でも彼の話を誰も止められない。それはいかにも仕事の話に結びつきそうで、あるいは人生の教訓的な何かに繋がりそうで、しかしその

ミヒサの日記

 江湖育三郎は齢110にして大往生を遂げた現代の大富豪である。別れに際してその終の住処である都内の邸宅周辺には交通規制が敷かれ、時の政治家や財閥の関係者等々、1000人は下らない人数がその最後の挨拶に参ったと言われる。ひっそりと、しかし豪奢に執り行われた育三郎の別れの儀式は、多くの関係者の涙と惜しみに見送られ、滞りなく終了した。  それほどまでに影響力のある人物の残した財産は莫大で、その多くは直系の息子である陽介に受け継がれることとなった。しかし育三郎はその晩年には少しずつ持

繋がりを持つ。何がなんでも生きていく

 どのようにしても、何があっても、何がなんでも生きていくのだという強い覚悟は、きっと自分にはない。精々そこには誰かのためというハリボテの意思と、しかしそれを支えるために必死な自己実現本能と、それらがあるからには仕方がないとどこか他人事に理由を探す本能とがあるだけなのだと思う。  同僚に誘われて夜の店にでかけた帰り道、繁華街から外れたひとけのない高架下にあったダンボールのかたまりを、随分酔っ払った同僚が蹴り飛ばした。営業職の磨き上げられた革靴の硬さにひとたまりもなく、その使い

水の中に揺蕩う常識

 目が覚めるとそこは海の真ん中で、仰向けになってただ一人浮いていた。真上には太陽がその光を余すことなく見せつけて暑く、かと思えば背中側は、ぬるいのか冷たいのか分からない奇妙な海水の不快な感触に辟易していた。かろうじて視線で左右を確認するも誰もいない。船もなく、空に飛行機どころか鳥すら飛んでいない。ただただ、太陽と海水。真っ白な光と青黒い海面。不安感に叫びだしそうになりながらも、うっかりするとそのまま沈んでいってしまいそうな自分を必死に抑えて、脱力したまま浮いている。そうしてし

父と母の今と昔

 小学生の時、将来の夢を書けと言われて書いたのは多分、父親の職業だったと思う。それは確か普通の会社員というわけではなかったけれど、それほど希少な職業というわけでもなかった。その頃のことがそんなに曖昧なのは、ちょうど父と母が離婚しようかしまいかと家庭内がそれはもうぎくしゃくしていたからで、正直、小学校高学年までそんな大して意識していなかった父親の職業というものに、せっかく興味が持てるタイミングを逃してしまったのだと、今にしてみれば思う。  父親の職業。そして母親の職業。そのよ