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父と母の今と昔

 小学生の時、将来の夢を書けと言われて書いたのは多分、父親の職業だったと思う。それは確か普通の会社員というわけではなかったけれど、それほど希少な職業というわけでもなかった。その頃のことがそんなに曖昧なのは、ちょうど父と母が離婚しようかしまいかと家庭内がそれはもうぎくしゃくしていたからで、正直、小学校高学年までそんな大して意識していなかった父親の職業というものに、せっかく興味が持てるタイミングを逃してしまったのだと、今にしてみれば思う。

 父親の職業。そして母親の職業。そのような昔のことはもう忘れて、自分は自分の人生を過ごすことにした。

 今、地元を離れてひとり暮らしをしている自分の職業は、ただの会社員だ。取り立てて特徴のないIT企業の平社員で、毎日やることの変わる多忙さと引き換えに、それなりの福利厚生と、きちんとした賞与と、ささいなやりがいとで日々を過ごしている。
 ある日、たまたま大きな取引が決まって、その数十分の一程度の貢献を称えられた飲み会後の朝方、断り続けたお酒をとうとう深夜2時に飲まされ軽い頭痛と共に帰路についた。今日が休みで良かったと思いながら築30年くらいの古びたアパートの扉を軋ませる。ドアノブがするりと回って、そのまま開いた。
「鍵……かけ忘れたか」
 酒で緩んだ口が声を発する。覗いてみると部屋の電気がついていて玄関には見知った靴が揃えて置いてあった。いや、その靴自体は見たことのないものだったが、なんとなくその靴を履きそうな人物に心当たりがあるということだった。
「母さん」
「お帰り。ご飯作ってたんだけど……温め直すね」
 数年ぶりに見た母親の顔は、存外優しく思えた。離婚が成立してから十年以上会っていない存在だったが、その距離と今目の前にいる母との距離に差はないように感じた。
 食卓を囲むのは無言だった。何を話して良いか分からないこともそうだが、話すべきことを見つける気にもならなかった。母も、特にそれを欲しているような気配でもなく。ならばなぜ、この今になって、ご飯を作りに来るなどという奇行に出たのだろうか。
「鍵は」
 白んできた空が窓に映るのを目の端に見ながら、自分は洗い物をする母の背に言葉をかけた。母は水を止め、振り返った。
「ポストの下にあったから」
 そう答えて、母は洗い物を再開した。
「あんたよく、大事なもの引き出しの下に隠してたでしょ」
 さも当然というような淡々とした母の声を聞いていると、昔のことを少しずつ思い出してくる。母はアパレル関係の仕事に自信を持ち、家ではどんなことでも遠慮なく言ったし、やっていた。そしてその度に我慢していたのは父であり、そして自分だった。傍若無人というわけではないが、というよりそうは当時思っていなかったものの、この母による日々のストレスは、多分父にとって相当のストレスになっていたのだろうと思った。

「また来ていい?」
 翌日の昼頃、このあたりに住んでいる友人に会いにいく予定の母が玄関先で放った一言に、自分は返す言葉がなかった。それはたたの言葉だった。母という形のものから発せられた、記憶通りの母がするであろう言葉。
 何も言わなかった。そのまま、母を見つめた。玄関の扉に手をかける母。それは反対だった。離婚が成立した日、自分と父は出ていく側だった。そして母はその時、少ない荷物とともに家の中にいた。今、その状態のまま自分と母は見つめ合っていたが、すぐに彼女は時間だと言ってこの家から出ていってしまった。

 結局、その手に鍵を握りしめたまま。そして、足音が遠ざかっていき、静寂が訪れた。

 もう残り半分になってしまった休日の部屋の中で、再び訪れたひとりの時間が、じわじわと戻ってくるのを感じていた。母はやはり、昔のままだった。それどころか、久しぶりのその行動は、やはり自分には理解できないものだったし、きっと父もそうだったんだろうと、遅まきながら納得がいった。
 また明日も仕事がある。それは特に描写することのない、普通の仕事だ。けれどそれが大切なのだと思った。改めて。母のように。父を追いやったあの人のような人生ではなく。
 父ではなく、あの母としか、自分の今の人生に接点がないのは皮肉な話だったけれど、だからこそ父には父のままの生き方を続けてほしいと改めて思っていた。

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