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アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。

 誕生日に、親にねだって買ってもらった飼育キットがあった。母に相談し、仕事で忙しい父が珍しく一緒に店まで着いてきてくれてまで買った、ちょっと高価なキットだった。それは学習雑誌のおまけについてくるようなものとは違ってとても大きくて、自分の部屋の一角をすっかり占領するくらいあった。当時、クラスの中での人気者と言えば発売したばかりの最新ゲームソフトを持っていることが必須の条件で、残念ながら自分はそれには全く当てはまっていなかった。
 けれど、アリの観察キットで、しかもそんなに大きいものを持っていたのは自分くらいだったのだ。それは珍しさで、量産されたゲームソフトに勝っていた。おかげで、1番とは言わずも、噂を聞いた誰もが1度は見てみたいものを持っている男子として、大して話したこともない友達の友達までもが家に押しかけて来るようになった
 そうして家に来た彼らは、挨拶もそこそこに私の部屋に入っていき、アリ達がせっせと巣を作るさまを、しげしげと眺めていたものだ。
 自分はいつも、アリを大喜びで観察するそんな誰かを、いつも苦々しげな思いで出迎えていた。それは会ったばかりで気まずいからでも、なんと声をかけていいか分からなかったからでも、本当は嫌だったからでもない。ましてや、そのアリによってもたらされた人気が仮初のものだと知って、そのハリボテに絶望していたからでもない。そもそも自分は人気者になりたいとは1度だって思わなかったから。
「はいこれお菓子、私が焼いたの。いっぱい食べて〜」
 アリを見に来る訪問者に、決まってお菓子を出す母がいた。母は専業主婦になるために生きてきたような人で、若い頃から家政を学び、家の事柄全てを、私や父に代わって行っていて嫌な顔1つしないすごい人だった。それでいて優しさで包み込んでくれるような人で、私は当時、本当に母親っ子だったと思う。そんな母の様々な趣味の内の1つにお菓子作りがあって、それまでは食べる人間が私と母本人くらいしかいなかった。それは確かにとても美味しくて、私は学校から帰ってきた後の密かな楽しみに思っていたのだ。
 そこにアリの観察キットが導入され、思わぬお客さんが大挙して押し寄せた。当然のように、母は嬉々としてお菓子をふるまう。クッキー、パイ、パウンドケーキ、チョコ、ゼリーやグミ、ポテトチップスなどに至るまで、本当に様々なお菓子だ。
 それを母は、私の知らない笑顔と声色で他人に施しを与える。嬉しそうに。まるでそれが望みであったかのように。満足してぞろぞろと帰っていく友達とも言えぬような同級生達を見送って、今度は何にしようなどと、ワクワクした顔で語っていた。

 正直に言って、母を取られたと思ったものだ。その気持ちは日に日に増していった。朝学校へ出かける時、母が鼻歌交じりに台所に立っている姿を見るだけでもう憂鬱だった。今度はガトーショコラを作ってみるからと、味見をお願いされるのが苦痛に感じていた。いつしかその同級生達の家に来る目的が、アリの観察から母のお菓子に変わっていくのを目の当たりにしていたから、なおさらだった。
 だから私は、同級生達が家に訪れる大義名分を潰そうと考えた。キットには透明なゼリーが充填されていて、それをアリ達が掘って巣にする。ゼリーには栄養もあって同時にアリ達のご飯にもなっていた。中々に大きなケースの中は大層な巣になっていて、学校から帰って来たとある日、自分は部屋にあるそれを見下ろして、アリ達が蠢くさまを見ていた。今日はたまたま、同級生達が来ない日だった。というよりも私がそれを止めたのだ。今日ではなく明日もっとすごいものが見られると言って、少なからずまだ、アリ達に興味のあった同級生達の予定を延期させた。
 そして母は、買い物に行っていた。私が同級生たちは明日に期待を寄せてくるのだと伝えると、嬉々としてそのための材料を買い込みに行った。専業主婦ゆえに、趣味のことで出かけられるのは母の楽しみでもあった。私はすすんで留守番を買って出た。そうして今はこの家に独りだ。考えていたことを実行しに、私は部屋に隠しておいたスーパーの袋を抱えて、台所へ急いだ。

 いつも母のお菓子作りを手伝っていたが、そうでなくとも、ゼリーのレシピは簡単だ。ジュースを温め、ゼラチン液を加える。それだけだ。大きめのボウルになみなみとできたゼリー。私はそれを部屋まで持って行く。ちゃんと食べるには冷蔵庫で冷やさなければいけないが、これは人間用ではなくアリ用だった。スプーンですくって、そっと巣の入り口から流し入れた。ゼリー液は見事に網目のような巣の中を駆け巡る。飼育キットに使われていたのが本物の土でなく、ゼリー状の何かで良かった。私が流し入れたゼリー液を吸収することなく、それはアリ達を巻き込みながら、その作り上げた巣の半分くらいのところまで流れて、水たまりを作った。

 後は、適度にゼリー液を加えながら、アリ達が溺れていくのを見ているだけだ。アリは仲間の死体にまみれたゼリーを目の前にしても、たじろぐことなくそれへと向かっていく。というより、逃げようにも巣の中にいてどんどん逃げ場がなくなっていく。甘い匂いの充満した部屋の中で、私はその様子をただ観察していた。気づけばボウルの中にあるゼリー液は半分ほどなくなっていた。観察キットの中身は、すっかり色が変わってしまっている。アリは溺れるのだ。これで、招かれざる客達はこの家に来る理由がなくなった。

 その後、私は帰ってきた母親にことの顛末を話、観察キットは撤去された。アリにおやつをあげようとしたのだと嘘をついた。母親は私を叱らず、優しく頭をなでてくれた。その時に芽生えた罪悪感と引き換えに、私はこの家を、群がる同級生達から守ったのだと思った。また前までの生活が、戻ってきた。

 当時の私は、本当にこれが自分にとっての解決策ななのだと思っているはずもなかった。単に心の中にあるわだかまりが、問題行動となって表れただけなのかもしれない。けれどアリを甘みの中に溺れさせることは、確実に私の心を満足させた。
 母と父が離婚し、私とも離れ離れになってしまった今でもそう思う。あの時のアリ達には感謝しなければならない。大人になった現在でも、道端でせこせこと忙しそうにするアリ達を見下ろすことがある。その様子は当時の記憶と変わらない。アリは甘いゼリーに群がるが、ちょっとでもかけ違えばそれで溺れ死ぬこともあるのである。

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