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濡れている身を隠した木々と、リスの温もり

 そんなつもりはなかった。
 ただ、彼は押しただけだった。そのバタバタともがく後ろ足を見て、手を伸ばしたら届きそうで、人差し指で触れてみると暖かくて。

 生き物は温いのだと思いだしたのはその瞬間だった。彼はその時は全身ずぶ濡れで、雨でもないのに身体を震わせながら、そろそろ走るのも限界だったから。慌てて飛び込んだ公園の低木に身を潜めて、バタバタとすぐ横を駆けていく怒声に身を縮めた。
 しばらくの時間が経って、彼は低木から顔を覗かせる。ずぶ濡れだった衣服は彼自身の体温でぬるくなっていた。もちろんその分、彼は寒さに震えが止まらなくなっていたのだけれど。

 そうして、公園の土を踏んだ彼は改めて辺りを見回した。誰もいない。住宅街の程中にある小さめの公園は既に近隣住民からは打ち捨てられていて、すぐ近くに新しく大きめで、遊具も新品の安全なものがある公園があった。子供も大人もそこに行く。ここをよく使うのは、昔まだここで遊んだ記憶を大事に抱えている彼くらいのものだった。
 ぶるりと身体を揺らし、彼は耳をそばだててみる。声はしても遠い。それでも今のうちに、安全な自宅に帰らなければならなかった。そう思って彼は公園から出ようとしたが、ぼたりとボロボロの靴先に雫がたれて気がついた。まずは服を乾かさなければならない。そのまま家に帰れば怪しまれるだろう。しかしその方法は思い浮かばず、仕方なく彼は小さな公園の入り口から遠く、住宅街との境目に植えられた木々の暗闇に、身を隠すことにした。

 残念ながら太陽は雲間に隠れて、彼の味方をするつもりはないようだった。ザラザラとした木々だけが彼を抱きとめるように、その隙間に誘う。反対側の、公園の入り口に面した道路からはここはあまり目立たない。よくこの公園で遊んでいた彼が、昔に発見した隠れ家だ。独りで遊んでいた時に覚えのある声が聞こえて、慌ててこの木々に身を潜めたのがきっかけだ。

 ひんやりとした暗闇から目を光らせていてしばらく、彼は植物によって冷やされた空気と自分自身が一緒になっていくような心地を覚えていた。そのままこの暗闇に消えていってしまうのかもしれないと呆然と思っていた時に、彼はそれを見つけたのだ。
 地面から一直線に伸びるはずの太い幹が途中で二股に分かれる。その更に先、左側へと伸びていく枝が更に三股に分かれていく部分に、バタバタと茶色い毛玉が暴れているのだ。
 彼は思わず息を呑んだ。お化けかと思ったからだ。けれどそれはよくよく見れば、きっと恐らくリスであろうと見てとれた。

 彼は軽警戒にそば立っていた毛が落ち着くのを感じた。そしてその枝に挟まれた哀れなリスへと、そっと近づいていく。どうして今まで分からなかったのだろうか。こうして近づくまでもなく、それはけっこうな音を立てて、その窮地から逃れようと必死なのに。
 しばらく観察して、彼はそのリスが、ちょうど腰のあたりで枝に挟まり抜けなくなっていることを知った。何度か角度を変えて覗き込むたび、そのつぶらな瞳が彼の姿を捉える。そのつと、リスは驚いたように暴れるのをやめるが、またすぐ、まるでそうすることを義務付けられているかのように、抜け出そうともがく。

 彼はこの可哀想なリスを、最初はどうしようとも思わなかった。別にそれは彼のペットでもなかったし、特に小動物が好きというわけでも、何より危機に陥っている他の生物に手を差し伸べることなど、考えたことも余裕もなかったからだ。
 それで彼は、いつかはそのリスも自力で脱出できるだろうと思って触らなかった。だがしばらくして、リスのもがきは少しずつ元気がなくなってきたことに気づく。バタバタとした足が懸命に枝を折らんとばかりに力強かったのに、それはとうとう枝に爪を立てることすらできなくなっていた。
 彼は1歩近づいて、そのリスの臀部の痙攣のような動きを見た。また1歩近づき、その尻尾の揺れるしゃわしゃわという音を聞いた。そしてもう1歩近づいたところで腕を伸ばし、尻尾の付け根をそっと持ち上げて枝の間から外し、そのままぐんと指を突き出した。

 それは驚くほど上手くいった。彼はそのリスを救出できたのだ。しかしリスは、ジジッと何かの機械が壊れたような変な声を上げて、なけなしの足の力をぐんと伸ばしてしまう。ちょうど別れた枝のそれぞれが、リスの小さな足を支えてしなり、リスは勢いよく、まるで最初からそうしたかったかのように木々の作る暗闇の中に飛び出した。

 彼はじっとそれを見ていた。しかしすぐに、雑巾を思い切り絞ったようなギュッという音がして、彼は慌ててリスのあとを追いかけた。
 リ身を屈めて地面を見てみると、リスは事切れていた。ピンと伸ばした四肢がまだピクピクと動いている。中途半端に細められた目が、彼を黒く見上げている。そこには恐怖に顔を引きつらせる加害者の顔があった。いや、彼はそうしようとしてしたわけではない。断じてそうではない。彼は立ち上がって、木々の暗闇から飛び出した。
 身体の冷たさはもはや感じず、一目散に、彼は自分の家へ向かって走っていった。この公園に身を潜めた理由も、その濡れた身体を乾かさなければならないわけも忘れて、彼はリスの死骸からできるだけ遠ざかろうと走る。

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