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虫のような女との結婚の話

「だからね、結婚なんて誰にだってできるワケよ」
 綺麗な赤いネイル。虫の四肢のように細い人差し指と親指でつままれたスプーンをガチリとカップの縁にぶつけて、公子さんは最後の紅茶を一気に飲み干した。
 よくあるチェーン店の喫茶店だった。平日だからか、他に客は少ない。夕方で窓から差し込む光の角度が変わり、仮面のように、彼女の顔には邪悪な陰影が貼り付けられている。私は思わずしかめた顔を気付かれないように、視線を暮れなずむ外に向けて、「そうですね……」と意味深なため息をついてみせた。
「やっぱり、ミナと上手くいってないんじゃない」
「いってないんですかね?」
「わかんないんなら、そういうことでしょ。大体、2人共心配し過ぎなの。周りに比べて遅いとか早いとか、どうでもいいでしょう」
 公子さんは毛虫のように長いまつげを上下に揺らしてまくし立てた。一息ついたのか、再びカップに指をかけようとして、それが空であることに気づいてグラスの水に口をつけた。細長い首がゴクゴクと動いて透明な液体を吸い込んでいく。
 私はその様子をまたしてもなんとはなしに眺めてしまいそうになり、本人に気づかれては何を言われるか分からないから、また窓の外へと視線を慌てて移した。

 同棲3年目の恋人との結婚のことを悩んでいた。向こうは早くそうしたいらしい。でも自分は、そう思えなかった。覚悟がなかったと言えばそうかも知れない。けれどきっと違っていて、その話を切り出された時に思ったのは、「料理」だった。
 銀のカバーをかけられて、シェフが運んでくるよくあるシチュエーション。実際に体験したことはない。けれどまるで、それが運ばれてきたかのように、自分は唐突に、その中身を、更に乗せられた料理がなんなのかを確かめることが、手を伸ばすことがとても難しいのだと、そういうふうに思った。だから恋人の話は、なんとなく適当な返事をしてしまった。でも、そんなもの否定しているのと同じだということも分かっていた。
 出された料理を確かめもしないのは、食べるつもりがないのとなんら変わりがないだろう。だから翌日から、恋人とは変な空気になってしまって、半月が過ぎた。今更その料理がどのようなものか聞くことも、こっそり中身を確かめてみることもできなくて、私は友達から紹介されたこの目の前の女性に、促されるままに話をさせられてしまったのだった。
「聞いてる?」
「あっ、はいすみません」
「そんなんだから身構えちゃうの。さっきも言ったけど、結婚なんて空気と一緒よ。そこら中にあるんだから。毎日テレビでやってるでしょ」
「テレビ……」
「芸能人の結婚とか離婚とか。どうしようもない芸人が結婚してたりとか、不倫しまくってるのに離婚しないとか」
「はあ、まあ、たしかに……?」
「ね、そんなもんよ結婚って。あなたどういうものか分からなくて、とか言ってたけど、分かるもんじゃないのよ、こんなの」
 公子さんは小枝に擬態したナナフシのように細い指を突き立てて、得意げに言いきった、という表情をしていた。夕日が落ちてきて、益々その顔には陰影が際立って恐ろしい。私はかろうじて、彼女の言葉に頷いて、神妙に、その内容について吟味しているフリをした。
 考えても分からない……という彼女の言葉に、確かに腑に落ちるところもあった。別にしっかりしている人が結婚するのではないのだと。そして結婚が、人をそうさせるのではないことも。
 でも、それと自分が結婚に対して前向きになれるかどうかは、別の話だ。むしろ、どのような人間でも結婚などできるのだから、あなたもそうしなさいと言われるのなら、いよいよもって結婚する気持ちになどならない。
 そう考えると、自分はただ、自分の人生の問題として、目の前に突如として出された料理に驚いているだけなのかも知れない。それは自分にしか供されていない料理だ。それを他社のものと、しかも既に銀のカバーが開けられてしまったものと比べるのは、明らかに変だ。

「あの、今日はありがとうございました」
「いいのよそんな! またいつでも頼ってね!」
「は、はあ……」
 追加でいくつか料理を頼んだ公子さんをテーブルに残し、私は店を出る。お金をおいていこうとしたら断られた。そういうところは頼りになりそうで、友達が彼女を紹介してきたことの理由の1つに気づけた。
「また悩んだら頼ってよ。キョウチャンによろしくね」
「あ、はい」
 私は反射的に頷いて、最後のお礼とともに立ち去ろうとした。鷹揚に頷く公子さん。横から見ると、その背筋は、大木のようにしっかりと伸びていた。そこそこの年齢だとは言われていたが、相応の貫禄がある。追加でもらったグラスに彼女の手が伸びる。その指に、甘藷な指輪がはめられているのに、今更ながら驚いた。
「あの、最後に聞いていいですか?」
「なあに?」
「公子さんは、どうして結婚したんですか?」
「結婚?」
 驚いたような顔をする彼女が、初めて、我に返ったように自分を見つめていた。私も彼女を見つめ返した。ややあって、公子さんは笑って、水の入ったグラスをテーブルに置く。
「これ、カワイイからつけてるの。私は独身よ、ずっと」
 そう言って、彼女が掲げた手の指輪が、沈む夕日が街に差し込む最後の輝きを反射して鈍い光を放った。

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