見出し画像

品位なき生への、半分だけの復讐心。

 品位というものが感じられない世界で育った私には、品位というものがどういうのか、全く理解できなかった。捨てられないゴミの中で呼吸をし、洗われない風呂や衣類を着て過ごす。腹を満たすだけの食事をし、親との会話は罵声と叱責と暴力だけの一方的なもの。ある日この薄暗い部屋の中に大勢の大人が入ってきて、思わず顔をしかめてしまうくらいの良い匂いのする毛布にくるまれて明かりの中へと運び出されるまで、私はその「品位」という言葉とは全く無縁に、無縁ながらに、この世にかろうじて存在していた。

「篠田、お前臭いぞ」
「そうそう、風呂入ってないんじゃねーの?」
 だから、私が教室でそれを見聞きした時、それはあまりにも唐突に、私自身の昔を思い出させて心臓を貫き、そして脳を揺らしたので、目が離せなかった。彼らは3人だった。1人は椅子に座ってうつむき、もう2人は両側からうつむく頭に次々と言葉をかけていた。
(一方的な会話だ)
 私はそう思ったが、もちろん、その様子を私自身の記憶と重ねるわけにはいかなかった。それでも私の視線は、彼と、そして彼らに向けられていた。彼らは直接的に手を出すことはしなかったが、あれこれと彼に命令して、反応がないのに飽きたのか、わざと机を蹴飛ばしてから去っていった。
 昼休みの様子はそんなものだった。これまでの、この中学での生活の中には、あったかも知れないけれど見たことはない出来事。ドキドキしすぎて、その後の授業をまるで聞けないほどにそれはびっくりするものだった。
(こうやって唐突に起こるんだな……)
 彼の方をちらりと見る。いつもどおり普通に授業を聞いていた。けれどよく見ると、その足には上履きがはまっていなかった。靴下だけだ。そして広げられた教科書には、やりすぎなくらいに落書きがしてあった。

 それはなんのきっかけもなく起こった、と私は思う。ある日突然に、彼はこの教室で異物となったのだ。
 次の日の朝から、それはどんどんとはっきりしてきた。彼のいる場所だけ、どこか壁ができたような、にじみ出ている何かから他の皆が逃げ出そうとしているような空気が感じられた。相変わらず、私はそれを眺めているだけだった。次の日も、そして次の日も。
 半月が経って、流石に担任が気がついたのか、彼を個別で呼び出したりとか、他の誰かに険しい顔で話を聞いたりしていた。でも、もう半月が経っても、彼と、彼以外の人々の間にある壁はなくなりはしなかった。ただ、それはごくごく薄くはなっていた。薄くて、まるでないようで、でもそこに確かにあって。まるで、殺せないけれど死なないかなと思っている、育児放棄した親のいる家庭のように。あるいは、乾いた感情で貧民を眺める貴族のように。

(今日は上履き履いてる……)
 そんな教室の中で、私はスイッチを入れられたまま忘れられた空気清浄機みたいに、ひっそりと息を立てて、彼を観察していた。私はそれをすることが正しいと信じていたわけではなくて、でもそれ以外のことを出来ずに、ただせめて空気でありたくて、そうしていた。皮肉なことに、目をつけられないようにそうなることは得意だった。生まれたときから鍛えられた、唯一の特技とも言えた。だからそんな空気のまま、私は彼がなんにせよここからいなくなるまで、彼をこうして観察するのだろうと思っていたし、なんの使命感なのか、そうしなければとすら思っていた。

 けれど、彼を覆っていた見えない壁が少しずつ誰にとっても見えるようになってくると、
「アイツさ、なんか最近つまんなくね。慣れてきちゃってるっていうかさ」
「あー分かる、死んでほしい」
「ホントにな、死なねぇかなアイツ」
 焦り始めた首謀者達が、いっそこの原因をどうにかしてしまおうと考えた。その日を境に、見えない壁は手のひらを返したように見えるようになり、しかしその壁はどんどんと壊されていった。露骨な暴力や、罵声や、恫喝が行われて、教師に見つからないのが不思議なくらいだった。いやむしろ、見えない壁による不自然な距離感がなくなった分、それは適度な同世代同士の交流に見えてしまっていたのかも知れない。

 日に日に手がつけられなくなっていく彼を取り巻く状況に、とうとう私は見ていられなくなっていた。元々品位などなかった彼らのその行為に、いよいよ見境がなくなってくると、きっとそれは見て見ぬフリにすら劣る、愚劣な何かになってしまうのである。
「篠田!」
 帰り道、ようやく1人になった彼を呼び止めると、その表情は心底驚いているようだった。私が駆け寄っても、彼は逃げ出さなかった。というより、そうできないように見えた。
 汚され、ボロボロになった彼の目の前に渡しは立った。彼はうつむいていた、これまでずっと見てきたように、相変わらず、まだ自分はイジめられているだけなのだと信じて。
「ごめん」
 私は誤ってから、彼を両手で抱きしめた。毛布でくるむように。かつて自分がそうされた記憶を再現するように、優しく。彼のはっと息を飲む音が聞こえたが、それだけだった。彼は身動き一つせず、ただ抱きしめられていた。私はしばらくそうしていて、きっかり1分数えてから、彼を解放した。
「なに……?」
「ねえ、復讐しようよ」
「復讐……?」
 首をかしげる篠田に、私は常々考えていた、彼らへの復讐計画を話して聞かせた。それは、半分冗談で、半分は本心だった。はじめは疑心暗鬼だった彼も、具体的な方法やその後どうなるかをきちんと話すと、次第に興味深そうに耳を傾けてくれた。
 そして話は、篠田と、私自身の身の上話になっていった。自然と帰り道を歩きながら、思いの外、話は弾み始めていた。
 その時の会話は私史上最も爽快で、そして品位あるものだったと記憶している。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?