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我々はすぐに消えてしまえるので

 消失、というのはごく簡単なことなのだと思った。友達からのメッセージを読み終わって、<いいよ>と返して、私は寝転がっていたソファから身を起こした。部屋はありえないくらいに散らかっている。瓶や缶は机どころか床中に散乱していて、ゴミ箱が置いてあったあたりには大量の丸めたティッシュが山になっている。一応、袋には分類して色々、スプレー缶とか、包装紙とか、使わない食器とか捨ててみたけど、それを家の外のゴミ捨て場に持っていかないと、捨てたことにはならないことに今朝気づいた。
「……明日は絶対出す」
 誰にではなく自分に言い聞かせて、バイトに行く準備。化粧なんて面倒くさいことを世の中の女性はするらしい。自分はしないが、それはけして今、いくら探してもその道具が見当たらないからではない。何が入っているかももはや分からないゴミ袋をかき分けて、いつも大事なものが見つかるかのタイムアタックをしている気がする。時間制限のあるゲームは苦手だ。寝る前に布団の中で、パズルゲームなら何時間でもやっていられるのに。

 本当に、消失というのは簡単だ。なんとか身支度を済ませて太陽の下に出る。部屋の中の淀んだ空気が嘘のようだった。バイトの前にコンビニに寄らなければいけない。ペンとメモ帳と爪切りと綿棒が欲しい。マスクは下駄箱に放り込んであるので失くさない。何かが失くなってしまうのは本当に簡単だから、むしろそれが見えない方がなくなるリスクは低い。
 履き古したスニーカーに歩行を任せて無心でいつもの道を進んでいくと、景色がすぐに変わっていく。マスク越しでも分かる街のにおい。こっそりマスクを引っ張って中に空気を入れてみると、そのにおいがよりしっかりと感じられた。家から徒歩10分の駅は大きくて人がいっぱいいて、静かでどんよりとした空気の自分の家とは全然違う。でも、本当に違うのはここからだった。電車に乗ってもっと都会に出てバイト先にたどり着くと、そこはもう自分のフィールドではない。

「〇〇の代わりに来ました~」
「あっ、よろしく! ありがとう!」
 繁華街の雑居ビル4階に、バイト先の喫茶店がある。カウンターに肘を突きぼうっと外を眺めていた店長が、笑顔でこっちにやってきた。背が高くて色黒のいかついおじさんだ。年齢は知らないけど、格好いいので他のバイトの女子達にはモテている。
「今日予約3件入ってるから足りなくて」
「聞いてます」
 とっさにそう言ったけど、友達には何も聞かされていなかった。ついでに、友達が休む本当の理由も言わなかった。多分、ここのバイトを辞めるどころか、学校も、そして人生すら辞めることになるとは思うけど、彼女は溶けるように失くなりたいと言っていたので、その意志を尊重した。
「どうかした?」
「なんでもないです、朝は忙しかったですか?」
「常連しか来てないね~」
 テーブルの移動を始めた店長と最近のこととかを話しつつ、予約のお客のための準備をする。その内に他のバイトの子もやってきて、喫茶店で誕生日パーティーをしたいという奇特な客のために忙しく働いた。
 臨時なので私は特別手当が出るらしいが、他の子は時給1050円でいつもこんな感じらしい。休む暇もご飯を食べる暇も、笑顔を絶やす暇だってない。接待とかをするわけじゃないが、飲食店の店員なんてそれとあまり変わらない。自分というものを手放して笑って、そしてちゃんとそれを見つけて元通りになれる人じゃないと、この仕事は務まらないなと、カウンターに肘を付いてぼうっとしてみる。
「あっち、片付け!」
「あ、はい!」
 許されるはずもなく、休憩はひと呼吸で終わった。その後2組目、3組目と団体客が来て、私達がまかないを口にしたのは1日が終わりそうな時刻だった。
「お疲れ~みんなありがと」
 パスタとピラフを店長がテーブルに置く。みんな、可愛い声でお礼を言いながら、不思議なくらいゆっくりとそれを食べていた。それよりも女子達は、
「え、お休みないんですか?」
「この前できた〇〇ってお店知ってます? いきましょうよー」
 店長と話している。本人は適当に相槌を打ちながら、まあまあのスピードでピラフを食べ進めていた。1口1口がおおきいから、なくなるのは本当に早い。みんな、あれくらいお腹が空いているはずだ。ご飯というのは食べるためにあるのだから、早くなくしてしまうのが正しいこととすれば、間違っているのは女子達の方だろう。

「お疲れ様でした」
「お疲れ、今日はありがとう。またよろしく」
 家まで送ると言う店長を断って、私はここへ来た時とは反対の道順で帰ると言った。女の子達は、店長と一緒に近くの駐車場に行くらしい。終電に間に合わないらしい。
 女子の黄色い声とともに去っていく店長とは反対方向へと歩いていく私は、夜になると途端にゴミの増えるこの繁華街の、裏通りをわざわざ歩いていくことにした。日中はそれなりに清潔に見えたのに、暗くなるとここぞとばかりに汚れる街。それでも、自分の家よりはマシだと思う。1日中どころか日増しに増えていくゴミの山はここにはない。
 ある時に居酒屋に朝までいたことがあったけれど、夜の街はとても汚く思えたのに、朝にはすっかり澄んでいた。あれほどあった汚いものは隅に追いやられて、少なくとも散乱していたり、目について不快に思うことはほとんどない。
 夜の街は、道を選べば厄介なキャッチに捕まることも、誰かに絡まれたりすることもなく、比較的安全だ。というよりもここは、私のフィールドだからかもしれない。綺麗で清潔で明るいところは疎外感を覚える。それよりも今のような深夜が、私を溶け込ませて無くしてしまうように思っていた。それは居心地が良い無くなり方だった。
 きっと友達もそうだったのかもしれない。ふと、こういう夜道を歩いていてその歩みが自分の見知った家とかではなくて、なんとなく、居場所だと感じたところに向いてしまうことはあるかもしれない。
 そうして私達は、驚くほど簡単に亡くなってしまうのだ。あるいは、いるのだけど見つからない。ゴミ屋敷の中で必要なものが失くなってしまうように、それを見つけ出すには家中全部を片付けなければならない。でもたくさんの人がいて、いろんな出来事がある街ではそれは難しい。
 私は無事に、遠回りをしても目的の駅前にたどり着いていた。まだ、というよりもこの時間だからこそ多くの人がいる。あの家に帰って、朝にはゴミを出そうと思った。この街を全部綺麗にして友達を見つけ出して引き止めるよりも、それは絶対に簡単だ。消失、というのは以外なほどにあっさりしている。
 友達からのメッセージは、当たり前だけどもうなかった。もういなくなってしまったのか、そもそも、友達のアカウントだってこの現実にしっかりと紐付けられたものじゃなくていつでも簡単に無くなってしまえる。だからやっまり、本当に、消失というのはそうと分からずにそうなってしまうほどに、簡単であっさりしたものなのだと思う。

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