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宇宙の内外および理想と実情への想い

 私は宇宙的空間とやらに理想的な思いを巡らせたことなどただの一度もないが、人々が空に憧れ、上を目指し、あのどこまでも続く星々の空間の中へ飛び込んでいきたいという欲求は、充分に理解しているつもりだった。それは人々の「内側」に、それら自身の宇宙空間があり、そしてそこに住まう宇宙人がいて、生態系があって、出来事があるのだ。その限りにおいて、宇宙はまだ人々と幸せな関係を築いている。
 しかし、人間の「宇宙飛行士」という職業は、昔ほどは手の届かない存在ではなくなり、それどころか金さえあればそこそこの民間人があの場所へ舞い上がるというのも当然のことになっていった。それは届かない天上ではなく、誰にでも良くうかがい知ることの出来る場所なのだ。そういった希望が人々の中に芽生えた時、あの宇宙とこの地上はとうとう一続きになってしまったのだと思った。かつてはそこから何億年と遅れて届く星々の光だけがその存在証明で、それから限られた誰かがその真実の一端を届けた。宇宙はいつからか、本当にあることになったし、それは最早疑いようのないところまで来ていると感じた。
 この感覚は、どのような人間にも当てはまるものだと思うものの、それでもなお異なるのは、自分にとって、宇宙は宇宙でしかないという冷静な気持ちも拭い去れないことだ。それは場所でしかない。そしてその場所を実際に知らないからこそ、それに憧れたり想像を巡らせたりして見上げることが出来るのだ。この宇宙に関する羨望は、そういった想像力の上に成り立っている。だからそんな想像力も持ち得ないような存在にとって、宇宙は本当に、ただの空間でしかない。広く暗い、どこまでもの空間。寒さと孤独。それでも星々の光は確かにどこからでも届くが、それは古い光だ。たとえ必死になって手繰り寄せても、その星はもうないかもしれない。途中で途切れる光に、絶望するだけだ。そしてまた、孤独に苛まれる。宇宙空間の関係性とはそのようなものだ。空間以外のそれぞれが、ひどく遠い。あるいは、相対的に小さくて見つけ合うことが出来ない。宇宙空間は何もかもを許容する包容力がありながらも、実際は抱いた胸の中にはとことん無関心である。
 私にはその自然的な摂理が心底恐いと感じる。だから宇宙空間には、なんの理想的な思いなど巡らせることが出来ないのだ。あるいはその思いを巡らせたが最後、私は私自身をあの宇宙空間の中に放り込んでしまうような気がして恐ろしい。
 だがそれを、誰か人に言ってみたところで無駄なことも分かっている。まだ多くの人間にとって、宇宙は単なる言葉であるか、あるいは理想であるかしかない。その実際など知るはずもないのだし、そう思えるくらいに考えを整理できるほど宇宙というものに接していない。だから宇宙は依然として想像上のものでしかないとも言える。一部の人々の身が、宇宙の一端に自らの方法で触れており、そして知る。その、人類全体においての心理的なバランスがまだ心地よい限りは、私はこの地球に住み続けることができる。しかしそれが一度崩れる時、つまり全人類にとって宇宙が理想ではなく現実になる時、私は宇宙と共に、この惑星の「外側」にならざるを得ない。

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