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繋がりを持つ。何がなんでも生きていく

 どのようにしても、何があっても、何がなんでも生きていくのだという強い覚悟は、きっと自分にはない。精々そこには誰かのためというハリボテの意思と、しかしそれを支えるために必死な自己実現本能と、それらがあるからには仕方がないとどこか他人事に理由を探す本能とがあるだけなのだと思う。

 同僚に誘われて夜の店にでかけた帰り道、繁華街から外れたひとけのない高架下にあったダンボールのかたまりを、随分酔っ払った同僚が蹴り飛ばした。営業職の磨き上げられた革靴の硬さにひとたまりもなく、その使い古され汚れ湿気を帯びたダンボールは、いともたやすく穴が開く。
「ここ住むところじゃねーんだよ! 邪魔!!」
 高架下のトンネル内に同僚の叫び声が響き渡る。ダンボールの中からは返答はない。けれど、蹴られた瞬間に一瞬、生き物のように身じろぎをしたように見えたことから、私と同僚は明らかに、その中にいる何者かに意識を向けていた。
「どうしますか? はがしちゃいます?」
 同僚は赤ら顔をにんまりと歪めてこちらに振り返る。私は酔いもそこそこにこの同僚の介助を頼まれていたこともあって、首を振ってその場を立ち去ろうとした。実際、この中に誰かがいるとしてもそうして嵐が過ぎ去るのを待とうとしているのだし、もし同僚がこのまま手を出してしまったらそれは非常に問題である。
 私は騒ぐ同僚の腕を掴んで、ひとまずこの高架下から出るように促した。
「ダメですって! ここに住んじゃダメなんですもん、撤去ですよ撤去!」
「後で役所にでも警察にでも連絡するから。今日はもう遅いし帰ろう」
「いやそれよりもですね──」
 千鳥足ゆえか、あるいはなけなしの抵抗をしているせいか、同僚をこの場から立ち去らせるにはひどく苦労した。幸い、同僚もそのダンボールハウスにはそこまで執着はなかったようで、少しずつ私達は帰路へ向かって歩みを進めることができていた。高架下をくぐり抜け、オレンジの街灯が明るい歩道の下に出ると、ちょうどそれ以上の明るさがどこからかやってくる気配がする。
 見れば、トンネルの上を電車が通って走り去るところだった。同僚が何事か口うるさく叫んでいるが、理解できるほどには聞こえなかった。電車の中には他人ながら何人もの勤め人が押し込められ、無言のまま運ばれていくのが分かった。そこに乗るのが友人でも、ましてや知り合いであっても、個々人の顔など電車の速度に引き伸ばされて判別できるはずもないが、皆きっと一様に疲れた顔をしているのだろう。
 電車が通り過ぎ、辺りには静寂と夜の暗さが戻る。同僚は叫んで気が済んだのか、ちょっと落ち着いたようだった。私もこれで歩きやすくなったと、同僚をつれてまた歩き出そうとした時、うなじ辺りに視線を感じて振り返った。
「…………」
 高架下の薄暗がりは、オレンジの街灯にや電車のライトに目を鳴らされた私の目にはもう、ほとんど黒にしか見えなかった。それでも、そこにいる誰かの視線が、胡乱げにこちらをじっと見つめているのは分かったような気がしたし、そのことで背筋に悪寒が走ったのも事実だった。
「……っ!」
 咄嗟にその視線の主に返事をしようとした自分を、同僚の声が止める。
「どこ見てるんですか?」
 私は暗がりの中の見えない視線から目をそらすことなく、しかし同僚の問いに答えることはしなかった。無言のまま踵を返して、オレンジの街灯がポツポツと円を連ねる道の先へと、同僚を連れて返った。

「だから、この前も新しいの買ったばかりでしょ?」
「でも次のも買わないとみんなと遊べないんだよ! ユウキなんかもうどっちも買ってクリアしてるの!」
「今のでも通信できるんだし、それでいいんじゃない」
「だから、さっきも言ったけど──」
 休日、階下で息子と妻が言い争いをしている声に私は目を覚ました。時刻は昼だ。今日は午前中に起きていくつか用事を済ませようと思っていたのだが、疲れがそれを許さなかったのかもしれない。
 身支度を済ませてリビングに顔を出してみると、息子が私のところに駆け寄ってくる。妻はソファに座って雑誌をめくっているが、恐らくまだ機嫌が悪いようだった。息子は、いくら言っても聞かないと私に訴えかけてくる。対して妻は、学習塾での成績のことをやり玉に挙げ、改善が見られないから買うつもりはないと牽制してきた。
「確か、前のソフトも勉強するから買うっていう約束だったよな」
「それは……」
 息子がたじろぐ。妻はもはや、話すことはないと言わんばかりにソファに寝転んだ。
「でも、友達が……でも……」
 言い訳を探しあぐねている様子の息子。妻は、厳しい口調で叱ったりはしないものの、けして優しくはない。決めたことはきっちり守らせるし、悪いことをしたら罰も容赦がない。だから私は、この件に関しては可哀想だとは思いつつも──実際、子供にとって友人関係はすごく大事だし、にもかかわらず些細なことで簡単に壊れたりする繊細なものだ──、新しいゲームが流行るたびにそれを買ってあげるというのは実際難しいことを、息子に説明した。
 息子は渋々といった調子で頷いて、誰かに貸してもらえるか聞いてみることにすると話した。私は、無事にこの問題が解決したことに安堵して、憂いなく買い物に出かけられると息をついた。

「でも子供も大変。友達友達ってさ、あの子いっつもそればっかりだもん」
 その日の夜、結局、近々遊ぶ約束だったのに不参加になってしまった息子は、早々とベッドに入った。妻とそのことについて話していると、少し自分が頑なすぎたのではないかと、彼女は落ち込んでいるようだった。私は結局の所、この問題はまだ解決していないことに気がついた、妻にとっての友達と、息子にとっての友達は違う。そのギャップが埋められない限りは、この話は平行線でしかなかった。
 妻は、今友達を作っても別れる可能性が高いから、そういうのにこだわる意味が分からなかったと言った。しかし考えてみると、友達を作る練習というのが子供には必要で、上手くいかなかったにせよ、そのために色々なことをするのは悪いことではない、と考え直していたらしい。
「反射的に怒っちゃったけど、勉強頑張るなら買ってあげてもいいかな」
 妻の言葉に私は頷いた。人気のゲームソフトなのであらかじめ買っておくことを伝えて、息子との交渉は彼女に任せることにした。

 後日、息子へが欲しがっていたものを買った帰り道に、私はまたあの高架下を通った。そこにはもうダンボールはなく、あの時は気が付かなかったけれど、ダンボールがあった辺りにうす茶色い染みが広がっているばかりだった。
 同僚は、あの夜のことはほとんど憶えていないらしい。ただ、革靴で蹴ったダンボールの感触は、いやに柔らかかったという。抵抗感などなく、ぐにゃりとして、気味の悪いほどすぐに折れ曲がっていく感覚。
 それと同じように、ここにいた誰かは無抵抗に、どこか別の場所へ連れて行かれてしまったのだろうか。ただその人物は、1人で薄暗がりにひっそりと暮らしていただけなのに。世間というものとかかわらずに(それはもちろん、私達の側が ”世間” だというともすれば傲慢な前提に基づく考えであるが)、あの、私の背中をじっと見つめていた誰かは、わずかばかりの痕跡を残してここから消えた。
 もしかすると、あの人物にもっと頼れる誰かや、仲間や、友達なんてものが多ければ、この高架下に居を構え、酔っ払いに言われなき破壊を受けることなどなかったのかもしれないと思う。いやむしろ、そうでなかったからこそ、ここに住んでいた誰かは何がなんでも生きるために拾い物のダンボールまで使って、この場所に居を構えていたのかもしれなかった。

 全ては、安全な立場にいる自分という存在から見た、偏った考えである。それを自覚していてもなお、自分にはもう既に持っているものを手放すことも、それを推奨することも、諦めることも出来ない。それこそがある意味、「何がなんでも」という自分の覚悟なのかもしれない。
 高架下を過ぎて、晴れた空の下に出る。街灯は沈黙していた。私は息子と、そして妻のための品物を携えてわざわざ灯りで照らされるまでもない明るい舗装道路をまっすぐに歩いていく。

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