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誰かの危機感を、何かと否定してしまう危機感

 人は何かをせねばと焦る時に“危機感”を覚えるが、それは必ずしも「何か」を明らかにするわけではない。明確な答えなど持ち合わせておらずとも、人は少なくとも“今”が肯定できないということに敏感であり、結果として覚える危機感に突き動かされてしまうのだ。
 突き動かされても「何か」に繋がるわけではないかもしれない。なんの解決にもならずに、それどころか事態を悪化させるかもしれない。しかし、危機感を覚えたという事実には、嘘偽りはないのである。私たちは自分のそれを他人に否定されたくはないし、他人のそれを否定するいわれもない。

 人間と人間がわかり合えなくなっているのは、この“危機感”を否定することに1つの端を発する。それはその人にとっては死活問題で「どうにかせねば命すら危ない」ものである。にもかかわらず、それを想像できず、あるいはそうしようともせず、「自分にとってはそうではない」というあまりにも当然の理由によって、考えなしに否定する。

「自分はそんな危機感など感じていない。だからあなたのそれもない。あるはずがない。バカなことを言うな。今すぐ取り下げて、その感覚が嘘偽りだったと訂正しろ」。

 こんなものに正当性などあるはずがないと、落ち着いてみればわかるはずだ。他人が何かを感じることと、自分がそれを感じないことに優劣はない。
 にもかかわらず私たちは、何かと曖昧なものを否定する力だけはものすごくて、悲壮な危機感の訴えを、取り下げることにだけ正しさを感じやすい癖がある。できれば危機感などない方がいい。その願いが否定の態度になってしまうかのように。

 ともあれ、危機感はその理由を明らかにするためではなく、単に、肯定できない“今”に、私たちは敏感なだけなのだ。その感覚を、まさか他人が否定できるはずはない。その感覚はその人だからこそ、その人生だからこそあるものだから。
 それなのに、他者の危機感は否定しやすい。危機感を覚えることは、まるで悪いことかのように。

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