「信じる」は客観ではなく主観
私たちは目に見えないものを信じないが、目に見えないことそのものは信じている。そして目に見えないものを信じることを、ともすればバカバカしいと思う。
それよりももっと、目に見えるものを信じ、はっきりしたものを武器にし、明確に誰にでも分かるものこそ正義だと信じてやまない。
誰にでも「そうだ」と思われているものは、確かに、この世界での「普通」である。
でも、そのことがそのまま、それを信じていい理由にはならないはずだ。即ち、明確に誰でも分かるものが、本当に目に見えているのか、目に見えている通りの姿形をしているのか、存在が本当なのか。それらは結局のところ主観でしかない。
多くの人の主観に合致するから、とりあえずは「それでよし」とされているだけであって、いつもどんな時でも正しいとは限らない。というよりも、それが目に見えていることが普通とは限らない。たまたま、現在の状況においてそうであるだけで、前提が変われば見えるものも変わってくるというものである。
すべての物事は主観でしかないというのは、極論でもなんでもなくて、単なる事実である。
主観だからこの世に正しいことはない、という話ではない。別に、正しさなどそんな確かなものではない、というだけなのだ。だから目に見える、確からしいものを私達は「多くの人がそうだ」というだけで正しく思ってしまい、その反対のものを、つまり目に見えない、曖昧なものを「少ない人が肯定している」というだけで間違っていると思う。
どちらも主観でしかない。正しいか正しくないかは、それとは関係がない。あくまで、この社会生活において不都合がないかどうか。自分が周囲の人々と生きていく上で間違いがないかどうか。本当のところはそういう基準なのだ。それを「常識」とか「普通」とか「当たり前」とかいう言葉で確からしくしているだけ。
私たちは目に見えないものを信じないが、目に見えないことそのものは信じている。これだけでもう、中身は関係がなく、私達がいかに信じたいものだけを信じているか。都合の良い物事だけを捉える癖がついているか。そういうことが分かる。
この社会で生きていくために必要だから、それをしているに過ぎない。
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