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なぜ創作物に「正しさ」を求めることをやめられないのか

 創作に正しいも何もない。誰もがそのことをわかっているはずだし、正しいものを求めているわけではないことも知っているはずだ。創作物に正しさを要求している人とはどのような人種なのか?
 まあそれはおいておくとしても、ともあれ、創作物を提供する側と、受け取る側は、正しさという規律はけして創作を豊かにしないことをきちんと実感している。

 それでもなお、創作物、そして創作行為にすら正しさが求められるのは不思議な話である。少なくとも私達の発想力や妄想、自由な考えを膨らませて形にする行為に枷をかけるのだ。
 たとえ正しいことで何かのメリットを得られるのだとしても、創作そのものの自由度という重大な代償を支払っては本末転倒である。それはもう、創作ではない。そう言えるはずなのに、正しさを、正しいと信じていることを当てはめようとするのは止まらない。

 このようなことが起こるのは、ひとえに正しさということに、そもそも正しい姿がないことが原因である。つまり、正しさとは何か? どういうことが正しいのか? それは人それぞれなため、どうやっても押し付けになるのである。しかし、正しさを求める際にそれは忘れられる。まるで絶対的なそれがあるかのように振る舞われる。だから齟齬が生じるのである。

 そもそもが曖昧な「正しさ」を、自由が売りの創作にぶつけることでめちゃくちゃになってしまうのだ。けれど、だからこそそれはやめられない。創作を正した、と思えるからだ。正しさを押し付けた側は、その結果に無頓着である。結果はどうあれ、そうできたことを尊んでしまうから。

 その点で、自由奔放な創作はかっこうの的である。いつでも、それは正しさを押し付けることができる。それが、創作物に正しさを求めるのをやめられない理由だ。創作はいつでも正しくない。だからいつでも、正しくさせようとされているのである。

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