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みんな「評論家」になりたいのかもしれない

 一日をぼんやりと過ごすことは少ない。冬が終わり、突然に日差しが強く暑くなりコートを脱いだ日も、その反対に急に冷え込んで慌てて上着を羽織った日も。そんなことでも私達は毎日毎日、何かしらに忙しく、急いでいて、歩いている道の途中で季節外れのサクラが可愛らしい咲いていても、それを立ち止まってただ見ることはなく……スマホを取り出して、画角を考えて、光加減を調整したりして、どんなコメントとともにSNSへ上げようかと考え、そして誰かからの反応を心待ちにする。

 そんなふうに、私達はいつのまにか、世界を、まるでその外側にいるかのように観察して、それを誰かに教えてあげるのだということを、考え方として当たり前に持つようになった。
 つまり全ての知覚可能な物事は、何か自分らしい「評価」とともに、誰かにシェアされることが、生きる上での前提になっている。そしてそのことは、その物事をシェアすることを目的とするのではなく、少しずつ、その物事への「私の意見」をまさに誰かに、誇らしげに、期待を込めて、掲げるために為されるようになっているのだ。

 私達は忙しない。日々の「物事」は多い。消化しきれない出来事が日毎に起こり、秒単位でコンテンツは更新される。それらに対して私達は「コメント」を残す。それは自分の意見であり、考えであり、価値観であり、アイデンティティだ。「違う」こと。それを示す最も簡単なやり方は、「批判」である。これは否定的な意味ではない。何かについて分析的に述べること。しかし、その口ぶりは辛辣になる。「違う」ことを表明しようとして、あるいは、自分自身を目立たせようとして、意見が否定的な方向性になるのだ。そして誰もがそれを留めなくなる。遠慮していたら、数多のコメントの波に溺れてしまうから。
 それで、冷笑主義的な、何か外側から世界を否定的に眺めるコメント郡が出来上がる。この世に溢れるそれらを見ることによって、それは模倣される。終わらない。しかし、批評家にならなければ埋もれてしまう。それは誰だって嫌だろう。なぜって、「私」の価値観が、まるで認められていないかのようになるからだ。この世に存在していないかのように。

 だから辛辣な批評家は生まれる。みんな、そうなりたくなる。

 ふと、昨日まで寒かったのに急に暑いことに、反対に寒くなることに、怒りや絶望とともに、地球温暖化の原因たる人類に恨み節を言ってみたり。会社や学校が休みにならないことに文句を言ってみたり。
 批判家は生まれる。日々の暮らしが忙しいがゆえに。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

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