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連載小説『恋する白猫』第ニ章・噂

亜希子の飲む“夜の珈琲”を淹れた後、光(みつる)はそれを持って、もと喫茶店の古くて狭い厨房から猫部屋へと出た。

そこで胸にスミ子を抱き寄せてソファーに座る亜希子がスミ子に向かって小声で何かを頻(しき)りに囁やきかける姿を、光は思わず立ち止まって凝視(み)た。

白猫スミ子の耳はさながら粉砂糖をまぶした羽二重餅(はぶたえもち)を薄く延ばして三角形にしたような耳である。
そしてその表も裏も淡く仄甘い生きた桜の花平そっくりの鴇(とき)いろで、それが更に乙女椿のような薄紅へと変容し、やがて逆三角形の小鼻までもが細筆(こまふで)で入念に染め尽くされたかのような色鮮やかな食紅いろと化す。
淡い恋情に上気する少女の頬さながらに…。

そんな時のスミコは自分に向かって語られる身も心も溶かすような甘言に陶然としているかのように見える。
それはどんなにスミ子が気高く類稀れな猫で如何に自分が亜希子という人間から必要とされているかを物語る、嬉しい心弾む言葉の羅列であるに違いないと光は勝手に妄想した。

彼女はそんなスミ子を見て時折ふと胸の奥が軋む程、
羨ましくなることがあった。

‘’あんなに求められて、
あんなに必要とされて、
なんの照れも無く恬然と賛美されるほどにどこまでも偏愛されて…
スミ子ったら幸せね、
人間でもそんな風に想われることなんてなかなか無いのに、
いつも自分だけを見つめて…
自分だけを愛してくれる人の前でなら…‘’

と光は亜希子の前の卓上に゙珈琲を置きながらふと思った。

“私も猫に゙生まれ変わりたい…”

テーブルの上へ置かれた蓋付きホットタンブラーのたてる幽かな音に亜希子は気がつき、その淡い微笑みを見せた。

『ミイちゃんはもう風邪は治ったの?』

彼女は光を‘’ミツル‘’ではなく、
よく‘’ミイちゃん‘’とまるで猫を呼ぶように優しく呼んでくれていたことを今更急に思い出した。

『はい』

とうわの空で無自覚に頷いた光はそのことに急に気づき、堅い口調で『いえ』と答え、更にはその誤りに気がついて『ええ』と咄嗟に答えるなり、思わずその唇を固く結んで今度は神妙な顔をして
『いいえ』と言ってしまい、
亜希子から『一体どっち?』
と笑われてしまった。

常に薄く微笑みはしていても滅多に声をたてて笑うことのない亜希子がたまに笑うと、辺りの空気や風が急にザワザワと音を竪(た)てて、綺羅めくあの木洩れ日を伴いつつ明るむのにも似てその笑顔はいつも眩しかった。

その眩しさの理由に今更ながら遅れて気がついた光はそのことを敢えて亜希子に向かって指摘しないとならなくなり、光は自分の職業上の立場がしみじみ厭になった。

『手島さんマスク、
つけるの忘れてますよ』

『あらまた私ったらうっかりしちゃって』

と亜希子は片耳にぶら下げていたマスクで再びその口元を覆った。

すると笑顔になると見えるあの歯列の見事に揃った半円の目映(まばゆ)い白さに華を添えるかの如く、ほんの僅かに見えつ隠れつするその歯肉や゙口腔の健やかで、濡れて艷(つや)やかな淡桃(うすもも)色とが同時にすっかり消えて無くなった。

亜希子がスイートハートへ通うようになってからスイートハートの常連客や店長達ですら陰で彼女に゙関する憶測を五月蠅いほど交わすようになっていった。

それまで人の噂話などとは無縁であったはずの温和しい彼らにとってこの街の者ではない、よそ者の亜希子の出現は良きにつけ悪しきにつけ、途轍も無く珍奇で新鮮で刺激的だったからだ。

『ねえあの人いったい幾つくらいの人なんだろうね?』

『年齢不詳だよねぇアラフォーくらいなんじゃない?
アラサーからアラフォーに゙なったくらいな感じがするけれど』

『アラフォーったって幅が広いからなぁ、四十前でもアラフォーだし、四十路過ぎてたってアラフォーっていうんだろう?
いったいなんだってそんな可笑しな言葉を今の人は使いたがるんだろう?はっきり幾つと言ったらいいじゃないか、
莫迦らしい、要するにもう若くないってことだろ』

『夜に仕事だなんて一体どんな仕事なんだろう?水商売かな、』

『割りと綺麗めな人だもんね』

『看護師さんとか?』

『あああり得る、だから夜勤てわけか』

『そうだなぁ水商売にしちゃ彼女そう色氣無いもんなぁ』

『いやあるよ、
たまにニコッとする笑顔はなんというのか、ちょっと玄人の匂いがするんだよな、
そういうのってね、何かの拍子にさ、ポロッと出ちゃうもんなんだよ、いわゆる色香ってやつだな、
なかなか隠し切れないっていうかなんていうか』

『えーそぉお?
全然解らないけど、
何よ普通の人じゃない、そんなの考え過ぎよ』

光は、3度の飯より大好きな噂話に喋喋(ちょうちょう)とする彼らのギラギラと脂切った下世話な好奇心を嫌悪する反面、自分もまた亜希子のことを、もっとよく識りたいと希(ねが)っていることもまた確かだと思った。

だがスイートハートへやってくる亜希子は自分のことなど眼中に無く、ひたすら彼女の関心は白猫スミ子だけに限定されていた。

たまに光と2、3口を聞いてくれることがあったとしても、それはあくまでも店員とお客との間に交わされる必要最小限の会話か、
そのおまけみたいな言葉の切れ端に過ぎない、

以前亜希子はスミ子の名前の由来について何故スミ子は「スミ子」なのか?
と唐突に問うてきたことがあった。

『スミ子ですか?』

と光は仏像のような細い目を招き猫のように円くして思わずそう尋ね返した。

『だって他の子は…
黒猫だから黒ゴマのセサミン、
美女猫だからベル、
白黒猫のおにぎりとキジトラのおはぎ、
三毛猫のオムレツ、
長毛白のおかゆ、
茶トラのコロッケとトンカツとサビ猫のシナモン、いろんな名前があって、どれもみんな可愛いのに』

『確かにそうですね、
でもなんだか…
ベルとスミちゃん以外食べ物の名前ばかりだけど』

『スミ子だけどうしてスミ子なのかな?ってずっと思ってて…』

『ああそれはね』

その時偶々(たまたま)いつもは店に居ない副店長の富貴子が光と共に珍しく店番をしており、こう言った。

『内気で陰キャで隅っこに、いつも居る猫だから‘’隅っこスミ子‘’ってなっちゃったの、
私が、つけたんじゃないんだけど、今は居ない当時のバイトの女の子がつけた名前で…
だけど別に…
可愛くない?‘’隅っこぐらし‘’のキャラクターみたいで』

亜希子は光が毎日“死ぬほど美味しくて飲むと、たちどころに疲れが吹き飛び多幸感に包まれる”
…という勝手に作った呪文をかけながら淹れる秘密の珈琲を、
そうとは知らずに飲み干すとこう言った。

『まぁ…それはそうですけど…』

『でもスミ子は里親募集を仔猫時代からずっとかけてますし、
貰われたら別の名前で呼ばれるだろうって適当な名前をつけたんだけど、全然人懐っこくないから誰からも貰われずにいつの間にやら、6歳ちゃんになっちゃって』

『隅っこスミちゃんだなんて、
…そんな意味があったのね…』 

亜希子はそう言うと決して自分以外の誰にも懐かない膝の上の白猫の眉間を妙に丁寧過ぎる手つきで静々と撫でた。

コロナ禍となってから‘’私達は歳だし‘’と言って、オーナーと店長夫妻は店番を光独りに託し、夫婦は朝と夕のどちらかにどちらかが顔出しする程度の事実上隠居生活へとシフトするようになったが、光はたいして大変でもなかった。

もとより客数の少ないスイートハートでは一握りの常連という固定客以外はコロナ禍となってからは一層望めなくなってしまったからである。

一時期は休業に追い込まれ、猫達をどうしたらいいのだろうと光も胸を傷めたが、オーナー夫妻は“なぁにそうなったら別の猫カフェへみんなそれぞれ貰われて行くだけよ悲惨なことにはならないわ”とケロッとしたもので、
一過性の休業も亜希子や一部の常連達からの絶え間ない寄附のためになんとかやり過ごし、半年絶たずしてスイートハートはたちまち復活した。

商店街の中の‘’猫カフェ古民家‘’とか、古民家を改造した‘’レトロな猫カフェ‘’とか、
テレビやSNSで放送拡散され知名度が上がったせいもあり、スイートハートはやがて一般人を中心に動物愛護協会からの寄附まで望めるようになっていった。

重い障害のある人か年輩者しか客層にいないこのスイートハートの客のいったい誰がSNSやテレビで取り上げられるような話題をメディアに提供したのか?
最初は光が疑われ、
『光ちゃん貴女でしょう?
きっとそうよね』
と嬉々として言われたものの彼女は当惑したままその被りを振るだけだった。

『私じゃありません』

何故なら光はデジタルという波に覆い尽くされた便利で器用なこの時代に、どこか取り残された孤島のような、今のままのスイートハートでいいと思っていたからだ。

光は内心つぶやいた。

『そんなことするわけないじゃない、ここは今のお馴染みさんだけの会員制にしてしまってもいいくらいだと思っているのに』

やがてスイートハートは朝の番組の特集としてごく短い時間枠ではあったものの放送された。

夕方近く訪れる亜希子を除くスイートハートの常連達の過度に緊張に凝り固まった面々がおのおの贔屓の猫を膝に、テレビ画面に映るのを、光は不味いインスタントコーヒーをお供に客の差し入れの桜餡パンをかじりながら見守った。
時々馴染み客達の“よそ行きの顔”を見ては、吹き出しそうになりつつも炬燵に入り浸って光の心は裏寂しくも生暖かく幸せだった。

テレビ放送はスイートハートにSNS以上の良い波及を与え、スイートハートは都市部や地方からも土日や連休などを狙ってやってくる中高年の家族連れや若い愛猫家達が絶え間なく訪れるようになっていった。

だが平日は以前と変わらず、平素は無口な常連のみでアンティークの振り子時計の時を刻む音に紛れて時折起きる猫同士の小さな諍(いさか)いや猫が水を飲む音、
客が息をひそめて漏らすあの吐息のような猫に向かって声も無くほころぶ優しい咲(わら)いとが、
小さな波紋のようにその空気を幽かに楽器の弦(つる)のように揺るがすだけだった。

時に短い発作が起きるように彼らの間にも下世話な好奇心が生む、どす黒い噂や憶測の域を越えない世間話は生まれる。
だがそれは彼らが自ら語り始めたことなのにまるで外界の誰か見知らぬ者により投石された不条理な跡のように光には見えた。

そして彼らは再び時が来れば大きな波紋がいつの間にか消失するかのように生臭い他人の傷口のようなその話題を忘れてしまう。

彼らが憶測であるにも関わらず堂々と造り上げた饐(す)えたような厭なにおいのその印象だけが彼らの中にまるで意味を失った遠い点景のように残り、やがてその噂の核は曖昧になってしまう。
しかしそのどちらもが本当はでっち上げしかないのだと彼らはとうとう気づかない。

そして思い思いの気の合う猫と向き合っては戯れ、光が出来うる限り慰撫するような気持ちを籠めて丁寧に淹れる珈琲や紅茶やハーブティー、ココアや日本茶やホットミルクを、それぞれの猫のように彼らは選び取り、各々(おのおの)の胸の奥深くに巣食うその虚しい人生の欠片(かけら)と共にそれらを鎮かに、枯淡に、素知らぬ顔をして飲み干していくのだ。
そんな時間が彼らにとってどんなに必要か解らない。

光はそんなスイートハートの心淋しい人々を深く愛していた。 

彼らは時代の波に巧く乗れず、
社会的にも機能していないことが一見して火を見るより明らかな、所謂(いわゆる)負け犬達が多かった。

そんな彼らが口に出しては滅多に云わぬ、めいめいの事情を光は常に寄り添う気持ちを働かせ理解したいと心から願っていた。

無論、彼らについて何も深くは識らぬ彼女に真の意味での理解らしい真似など出来るわけも無かったが、彼らの持つ事情やその背景が時代が司る社会の冀求するものからはいつも毎々甚だしくかけ離れているように、光は彼らに対する理解も亦(また)たった一つだけのものだとは思っていなかった。

亦、その事情も理解も共に正しいなどとは思っていない彼女は彼らに思わず眉をひそめることはあったとしても、それを敢えて正そうなどとは思わなかった。

些少の誤りの中でなければ生きてゆけない人々も世の中には居る。

‘’間違っていて何が悪い?
私だって間違ってばかりだ、
何が正しいかなんて誰にも解らないのに…〝
光は思った。
寸分の狂いも許さぬ正義なんて、均質性という名の狂気でしかない、

‘’この人たちはどこか壊れていて可怪しいまま、生きているのだ。
生きてきたのだ。
そうでなければ生きられなかったのだ。
それを憐れで壊れてて不幸せな連中だなどとは誰にも言わせない‘’

光はいつの間にかスイートハートの常連客たちを何年もかかって、まるで家族のように想うようになっていた。

ある日のこと。
光はスイートハートで客が買って猫達に与えるチャオチュールやその他の猫用おやつの売上げをオーナー夫妻に代わって計算していた時である。
その視線の端で、思わず見てしまったのであった。

亜希子が自分の膝の上でその胸にもたれ掛かかり、安堵し切って睡(ねむ)る’‘隅っこスミ子‘’に向かって〝スミ子〟ではなく何か違う、別の名前で呼び掛けるのを。

だがそれはほんの囁きに過ぎない為、なんと云っているのか?
空調の音に紛れて判然とは聴き取れない。
にも関わらず、亜希子の唇の鳴動は“スミ子”ではない光の知らない〝スミ子〟の名を、さながら吐息を刻むように克明(はっきり)と
と同時に軽やかに口ずさんでいた。

光は思った。
‘’手島さんはスミ子を自分だけが知るたった一つの名前で呼びたかったのだ。
まるで自分の猫のように‘’

スミ子はスイートハートのスミ子であり、同時に手島亜希子だけの恋人なのだ、
“恋人だなんて猫なのに、
私ったら奇異(おか)しなことを考える…”と光は思った。
“でも仮りに人間と猫とのそんな絆が在るとしたら、まるで子供の頃知った神話のようだわ”
と、光は誰にも見えない人形を、ひっそりと暗闇で抱き直すようにそう思った。

しかしそんな夢想に耽った光は、何故だか甘美な申し訳無さで一杯となり思わず頬を染めて、亜希子とスミ子から視線を反らした。
そして電算機の上へと俯向いて、そのキーを態とらしくガチャガチャと素早く打ち始めた。

と、彼女のエプロンのポケットの奥でスマートフォンが鳴った。
光はそこに出ている実家の電話番号に気づくとそのまま厨房へ入ると小声で言った。 


『何?お母さん?どうしたの?
こんな時間に』

『こんな時間にってまだ7時過ぎでしょう?あんたそれより春には少しこっちに帰ってきたら?
このお正月もとうとう帰って来なかったじゃないの、お父さんも気落ちしてとっても淋しそうだったのよ』

『う〜ん春たってなぁ、
こっちも何かと忙しいんだよ、
ほとんど毎日お店任されてるんだもん』

『それでもねせめてお彼岸には帰ってきなさいよ、そちらの店長さんにはお母さんから頼んで上げてもいいからさ、おじいちゃんのお墓参りあんたもう何年もしてないでしょうが?』

『そうだけどさ、
山田家のお寺って県境いで遠いし、行ったら行ったで山の中腹なんかにお墓建ってるんだもの、
大変だよ、お墓参りするのも山登りしなきゃなんないんだからさぁ、どうして昔の人って山の上なんかにわざわざお墓を建てたりしたんだろう?
お陰でお母さんなんてお盆にトレッキングシューズ履いてくくらいじゃない?』

母親は父親が定年退職後夫婦ふたりで登山やキャンプをするのだと家族に向かって宣言していたのに、その宣言はいつまでたっても口先だけで実行する素振りすら無かった。
だらだら夫婦で連れ添って行くのは山や川どころか決まって近所の喫茶店で、毎朝ボリューム満点のモーニングや、
その後の3時のおやつのケーキセットだ、プリンアラモードだを鱈腹、食べに行くくらいが関の山なのだ。
その為か、たまに逢うと目を覆いたくなるほど肥り肉(じし)になってゆく両親を光はやんわりと、

『そろそろその身体にブレーキを掛けないといろいろと弊害が出てくるかもしれないわよ?』

と寸鉄を喰らわしてみたが、脂肪も分厚くなったものの、それに連れてメンタルまでもが肥大化してしまった母にはまるでそれが効を成さない。

『いいじゃないの、
せっかく素敵なトレッキングシューズ持ってても履いてくところが他にないんだからお墓参りに使おうが何に使おうがそんなのお母さんの勝手でしょう?
兎に角、お彼岸くらい帰省しなさい、
お墓参りだっていい運動になっていいじゃないの、普段山登りなんてあんただってしないでしょ?』

『私は毎日ほぼ立ち仕事だし山登りなんてそもそも興味が無いのよ
おまけにお寺までが遠いしさぁ、タルいよぉ』

『そぉんなの簡単、簡単、
お姉ちゃんが免許とったから車で家族全員、連れていってくれるわよ』

『えっお姉ちゃん車の免許取ったの?いつ取ったの?そんなこと全然知らなかった』

『そんなことないわよ、
二年前くらいかな?
お姉ちゃん教習所通ってるよって手紙にもメールにもお母さん書いたのよ…
どうせ読み流してたんじゃないの?』

『そうだっけ?』

『そうよメールだけじゃないわ、あんたお姉ちゃんのこと何か話してもなんだか聞きたくないって感じだから、いつも…』

『そんなこと…無いけどさ』

『でもねお姉ちゃんが運転するようになってくれて私もお父さんもとても助かってるのよ、
病院とか行きたいとこお姉ちゃんがどこへでも中古のタントに乗せてスイスイ連れていってくれるから、食材とかの買い出しもちょっといいものだと遠くへ行くでしょ?前はお母さん自転車でエッチラホッチラ行ってたけど今じゃお姉ちゃんの車でほとんどが賄えるからお陰でお母さんラクラクよ』

だからふたり共あんなに太ってきたんだ、と光は思った。
まだ自転車でエッチラホッチラさせとくほうがふたりの為だったのにと光は心中うんざりしたが、
出てくる言葉はいちいち甚だしく険がある。

『そう、じゃいいじゃない、
お姉ちゃんと3人でお墓参り行けば?どうせ私は原チャ止まりですよ、どこへもスイスイ連れて行って上げられなくて悪かったわね』

『またそんなひねくれたことを言う、あのね、実はあんたに帰ってきてほしい理由、
他にもあるのよ』

『他って何よ?』

まだ怒りの矛先を電話の向こうの母親に向けながらも光は母親が自分をどんなに必要としているか切々と訴えてくることを心の奥底では夢想してやまない。

そんな娘の切なる願いを露ほども知らぬ母親は何故か急に電話の向こうで声を潜めた。
その声はまるで何かとんでもない奇忌に触れることを怖れるかのようだった。

『瞬(まどか)の高校時代の親友の麻佑子ちゃんって…光、覚えてる?』

失望することにすっかり慣れている光はさりげない風を装い、そのまま言葉を続ける。

『あー…うん、藤田麻佑子さん?
まあ覚えちゃいるけど…
お姉ちゃんと違って目立たなくて地味な人だったし、
そう印象には残ってないけど…
例の美少女コンテストに東京までマネージャー気取りでお姉ちゃんに尾いてった人でしょう?
本人よりノリノリだったことは、よく覚えてるわ』

『あの子がね死んだのよ、
それでお姉ちゃんショックで落ち込んで暫く鬱みたいになっちゃって……
体調も崩して実はちょっと入院までしてね…
一時期は大変だったの』

『え??そうなの?』

喫驚のあまり別人のように聴こえる自分の声が電話の向こうでエコーして光の鼓膜を打つ。

『そう麻佑子ちゃんが亡くなる前に、お姉ちゃんの大事な大事なべべが亡くなったから…
瞬にしてみればべべが死んで間もなく今度はたった一人の親友が亡くなってしまって…神経の細い瞬にはとても耐えられなかったんじゃないかとおもうの』

『べべ死んだの??そんなのもまた初耳なんだけど、麻佑子さんよりべべのほうが私ショックだわ、
いつ死んだの?なんで教えてくれなかったのよ?』

光は猫とはいえ家族間に起きた不幸を自分だけが知らされていなかったことに対して隠しきれない不満を姉の愛猫へと研ぎ澄まし、
呪詛のごとく強靭なこだわりを見せた。

『私だってべべは可愛がっていたのよ、そりゃお姉ちゃんほどではなかったかもしれないけど』 

『嘘ばっかり、あんたなんかべべのことうちには猫がいるなぁくらいのもんで、特別な愛情も思い入れもなんにも無かったじゃないの、可愛がってたのはお姉ちゃんだけじゃない、よく言うわ』

そこまで露呈された現実を前に、今更ながら情けなく言葉を失った光に母親は言い及んだ。

『昨年のクリスマス終わったあたりだったかなぁ…べべなんとなく調子悪そうになってきて…
獣医さんへお姉ちゃんが車でよく連れて行ってたんだけど、
もう寿命だったんだろうね最期は瞬(まどか)のベッドの中で…
瞬の腕枕で安らかに眠ったまま逝ったんだから…
あの子は幸せな猫だったよ最期まで…お姉ちゃんにまるで自分が生んだ子供のように大切にされて…
あんたと違ってお姉ちゃんは気立てが良くて女らしいから母性愛も強いのねきっと』

『べべってもう二十歳とうに過ぎてたんじゃない』
と光は母親の最後の言葉を聴かなかったことにすると、まるで猫が我が身を舐めてその動揺をなだめる反転行動にも似て、敢えて鎮か過ぎる声を出すとそう言った。

『そうよ24歳だったの、
だから大往生の猫だったんだけど、それでもお姉ちゃんは物凄く落ち込んでたわ、べべを目の中に入れても痛くないほどに可愛がってたから…
でもね、少しずつ薄紙を剥ぐようにお姉ちゃん元気になってきたなぁって時にさ、
今度は親友の麻佑ちゃんがあんなことに…』

『あんなことにって麻佑子さん病気?事故?なんで亡くなったの?まだ若いのになんでまたこんなに急に』

『それが自殺だったのよ』

『自殺?まぁたまたぁ、
やめてよぉ、麻佑子さんてそんな人じゃなかったよぅ』

『冗談じゃないのよ、
そんな悪趣味な冗談お母さん言うわけないじゃないの馬鹿ね!』

と母はやや猛々しいような声を出したかと思うと急にまた声を潜めてこう言った。

『うちの街のじゃないんだけどさ、2年前くらいにジャスコだっけ?イオンだっけ?なんとかモールっての、
それが出来た大きい街あるじゃない?そこの駅のね、
プラットホームから麻佑ちゃん線路へ飛び込み自殺しちゃったのよ』

『飛び込み……嘘でしょう』

光は荒れて皮がめくれ、ツノの立ったような唇の上に指先を押し当て思わず息を飲み、
その言葉の先を見失った。

『誰かがねホームに立ってた麻佑ちゃんを後ろから突き落としたんだなんて、不穏でおかしな噂もあるらしいんだけど…とにかく麻佑ちゃんはもうお骨になって今はお墓の中よ』

『…そんな…
じゃ事故か自殺かなんてまだ解らないってわけ?』

光はやっとの思いで母親にそう問うたものの、母親はその問いに一見なんの関係も無いようなことを電話の向こうで唐突に声を潜めてこう言った。

『麻佑ちゃんね、
実は婚約中に亡くなったのよ』

『婚約?麻佑子さん婚約してたの?』

『そうなんだけど…
なんかねぇ今の二十代、三十代の若い女性ってあまり良くない意味で発展家さんなのかしらぁ?
それともうちのお姉ちゃんが内向的過ぎるだけなのかしらね?
婚約しながらも麻佑子ちゃん、
どうやら他に違う恋人がいたんじゃないかって噂なの、
それでそのことで悩んで麻佑ちゃんノイローゼになっちゃって…
線路に飛び込んじゃったって言われてもいるのよね』

『でもそれだって単なる噂でしょう?勝手な話じゃない、
単なる事故かもしれないのにお母さんそんなこと言っていいの』

『お母さんってお母さんがそう言ってるんじゃないのよ!
街の人達がそう言ってるの!
お母さんがなんでそんな酷い噂をたてるのよ?
相手は娘の親友だった子よ?
そんなこと言うわけないじゃない馬鹿ね光は!』

『そうか』 

『そうかじゃないわよ!』
と母はまだ憤懣やる方無い口調が収まらない。

『でもちょっと酷いね…
家族のことも考えろと思うわ
よくそんななんの根拠もないような噂を流したりみんなするのかしら、どうせ根も葉もない無責任な想像からでっち上げたものに決まってんだから、
物理的に忙しくても心理的に暇な人っているのよ、 
そういうのが一番厄介なの、
まるで飢え渇いたようにいつも誰かの粗探しや悪口や陰口にばかりお盛んでそういう人って常に噂馬鹿なの、都会にもそういう人は大勢いるけど…
田舎は物理的にも暇な人が多いからもっといるでしょ?きっと、
都会の黄砂やスギ花粉並みにそういう輩が膨大な量、群生してるのよ…』
光はやり切れないというような声を出すと密やかに母親相手にこう呟いた。

『だから嫌いなの、
…田舎なんて』

『それがそうとばかりも言えないようなのよ、単なる想像とか噂ではないらしくて…これはそのぅ…
麻佑ちゃんのお母さんから直接、聴いた話なんだけど…
麻佑ちゃんとその彼氏?婚約者じゃないほうの…』

『うん』と光は怠そうに応えたもののその好奇心は彼女の意思とは反対に鋭いエッヂを向けて彼女の中で鈍い音と共にスキッドしながらも急カーブした。

『その人と電話でかなり酷く言い争ってるのを事故の前の晩、
麻佑ちゃんママがね偶然麻佑ちゃんの部屋の前通りかかった時に聴いちゃったらしいのよ』

『彼氏…』 

と光は自分に向かう鋭利な何かを瞳の奥に感じながらも敢えてそれを黙殺するようにそっと瞳を閉じた。

『婚約する前に付き合ってた元カレなんじゃないか?って麻佑ちゃんのママは言ってたわ、
電話の感じじゃ麻佑ちゃん随分激しくその男から責められてるように聴こえたらしいわ…
麻佑ちゃん携帯持ったまま“もう私を赦して”って…泣きじゃくっていたって』

『………』

『麻佑ちゃんママも気にはなったけど偶然立ち聞きしまったことだし…その時は咄嗟になんのことだかよく解らなかったらしくて、
不安は感じたけれど敢えて口出ししなかったそうなの、
でもそれが間違いよね、
やっぱり娘なんだから問い質すというか何かすべきだったと思うのよ、だってその翌日あの事故でしょう?
自殺なんだか…なんなんだか…
もしかして麻佑ちゃんにまだ未練があったその元カレの仕業なのか…』

『やめてよ、そんなこと言うの、麻佑子さんが突き落とされた現場を誰かが見たわけじゃないんでしょう?』

『そりゃそうなんだけど』

『だったら単なる憶測でしかないじゃないの、
憶測でそんな噂流したりしたら麻佑子さんかえって浮かばれないわよ』

しかし健康的な愚鈍さに裏打ちされた分厚い善意の奥深くに埋没し切った母親には光のそんな言葉はまったく猫パンチほども届かない。
そのせいか母親は娘の言葉から、いきなり飛び石の上を飛んで渡る跳ねっ返りの童女のように遠ざかるとこう言った。

『お姉ちゃんはよっぽどショックだったみたいで麻佑子ちゃんのお通夜はおろか告別式すら出なかったの、
出なかったというか、
出られなかったのね…
とにかくそんなんだからあんた、お姉ちゃんを慰めに帰ってきてよ、
……ねっ!?』

『そんな…いいけど…
なんで私が?』

すると間髪を入れず急に童女を卒業したたくましい母親の怒号が飛んできた。

『あんたっ!妹でしょうが!?
何がなんでなの!?
少しはお姉ちゃんを可愛そうだとは思わないのっ??
本当に昔っから光は冷たい子なんだから、たまには親や姉の顔見に家へ帰りなさいっ』

『どうせ冷たい娘だよ私は、
優しい家族思いの妹像、
急に求められたってさ、
変わらないよ、今更そんなもん…』

元来ずっと私を求めてなんかいなかったのはそっちサイドだったんじゃないのっ?と光は心の中でそう叫んだが、表向き発せられるその言葉は子供っぽく捻(ひ)ね媚びていて我ながらなんだか意地ましくて、不潔っぽいと光は思った。

『とにかくお墓参りがそんなに、かったるいんならお母さんたちにそこは任せてもいいから!
少しはお姉ちゃんに逢いに帰ってきてやって、お父さんも光に逢いたいばっかり言ってるし、
これを機会にあんたもちょっとは家族孝行しなさい?
いいわねっ!?』

怒髪天を突くといった言葉がぴったりな母親の声が鼓膜を震わせるように光の耳をつんざいた。
そんな光は思わず携帯を耳から離すと深いため息をついた。

『なるべく近いうちに帰省する日取りをちゃんと決めて、お母さんに後から電話でそのことをちゃんと知らせて!
いい?光?解った!?』

娘の心緒に関心も薄くまるで当然のような単線思考の果てにすら、その違和感に気づくこともないこの善良で肥った母親は思いの丈を家族の義務に包んで光に言いつのると一方的に電話を切った。

《第二話終わり》




to be continued to episode-3rd




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