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colaboと帝銀事件 《弱者の代弁者》の欺瞞を告発した文学者たち

ツイッターのトレンドに、「帝銀事件」が上がってたから、何事かと思ったら、30日にNHKでやる「松本清張と帝銀事件」というドキュメンタリー番組の話題だった。

NHKは昔からこのネタが好きだ。どうせまた石井部隊の話だろう。共産党、中国のプロバガンダ、という印象が強すぎて、私はどうも・・。

歴史ミステリの「もりかけ桜」みたいなもので、反権力好きは何度もしゃぶるが、例によってほのめかしだけで、何か確定的なネタが出てくるとは思えない。

ドキュメンタリーでやるなら、石井部隊の「犯罪を暴いた」大ベストセラー「悪魔の飽食」がなぜ回収されたか、とか、平沢武彦さんのこととかをやってほしい。

そうすれば、colaboの話なんかをからめて、「社会運動の正義と欺瞞」みたいな、今の時代に合ったテーマになると思うのだ。

平沢武彦氏の悲劇


平沢武彦さんのことは前にも書いたが、同世代でもあり、忘れられない人だ。

彼は、帝銀事件死刑囚の平沢貞通の養子になって、帝銀事件を追及し続けたが、2013年、54歳で亡くなった。

その2年前くらいだったか、武彦氏が自殺をはかったと週刊誌の記事になった。

「武彦氏を励ます会」のようなものが中野で開かれた。私は、そこで会ったのが最後だ。

武彦氏は、

「帝銀事件の再審請求運動がうまくいかず、生活が苦しく、不肖の息子で母に申し訳なく・・」

と苦渋を語った。

その場で、当時のJR東日本労組の人(つまり革マル)がカンパを集めた。

私は、財布の中にあった一番大きなお札をカンパした。


その後、平沢氏は自宅で孤独死した。ニュースでそれを知った時は辛かった。

1948年の帝銀事件で逮捕され、獄中死した平沢貞通元死刑囚の養子で、再審請求を続けていた武彦さん(54)とみられる男性が1日夜、東京都杉並区の住宅で死亡しているのが見つかった。警視庁杉並署によると、事件性はなく、同署は身元の確認を急いでいる。
同署によると、知人男性が武彦さんと連絡が取れないと交番に相談。同署員と自宅を訪れ、うつぶせに倒れている男性を見つけた。目立った外傷はなく、死後数週間経過しているとみられる。
帝銀事件では、青酸化合物を飲まされた12人が殺害された。平沢元死刑囚は公判で一貫して無実を主張。武彦さんは養子となり、遺族として再審請求を続けた。

日経新聞2013年10月2日


平沢武彦氏は、帝銀事件を追求していた作家、森川哲郎の息子だ。

平沢貞通の死の直前、貞通の養子となって、父から運動を引き継いだ。

当初は、マスコミが武彦氏の周りに集まり、帝銀事件のことをよく記事や番組にしていた(NHKもその中にいた)。事件の大きさもさることながら、石井部隊や国家権力の陰謀を匂わせる、左翼好みの題材だった。

しかし、マスコミは気まぐれだし、昭和が終わると、帝銀事件ネタも飽きられてきた。

武彦氏は「帝銀事件」専従だ。父・森川氏の著作の印税も細っていくと、生活が苦しそうだった。

最後に会った時、その顔色の悪さにショックを受けた。

彼の死は、限りなく自殺に近いという印象を周囲に与えた。真相を知りたいとずっと思っている。


colaboと社会運動の落とし穴


彼の人生は、左翼に限らず、社会運動にかかわる人に、教訓を残していると思う。

自分の人生を犠牲にして、社会運動に打ち込んでいる人は、マスコミに褒められる。

しかし、いっ時、マスコミに持ち上げられたとしても、勘違いしてはいけない、ということだ。

「正しい人」であるという陶酔感、同じ志で人と連帯する恍惚感、マスコミに注目される快感。

社会運動のそういう側面は、人の人生を狂わせてしまう。

平沢武彦氏は、不器用なほど真面目な人だった。そういう人も犠牲になる。


女性支援団体「colabo」の件も、改めて話題になっていた。もっとも、今のところ、ネットの中だけだが。


colaboのような団体は、左派マスコミに持ち上げられやすい。

それで、慢心や逸脱があった可能性があるだろう。

「正しいことをやっていれば、普通では許されないことも許される」という意識が芽生えやすい。


そして、社会運動は、功名心や政治的野心、イデオロギー活動の隠れ蓑にもなる。

社会的な犠牲者、被害者、弱者の代弁者となるーーそれは立派なことで社会的な意義がある、ということは否定しづらい。

しかし、だからこそ、さまざまな危険がある。

そのことを、マスコミは伝えない。ある種の共犯者だから。


「弱者の代弁者」の欺瞞を告発した文学者たち


社会的な犠牲者、被害者、弱者の代弁者となるーーそのことの欺瞞を最初に告発した文学者は、有島武郎や尾崎士郎だと思う。

ロシア革命を背景として、大正後半から昭和初期にかけ、プロレタリア文学が文壇を席巻した。

もちろん、川端康成の新感覚派など、左翼思想に染まらない文学者たちもいた(彼らはのちに「文学界」や「文藝春秋」などを拠点にした)。

有島武郎と尾崎士郎が特異なのは、一度社会主義運動に染まった後、それに反旗を翻したことだ。権力の弾圧による「転向」ではない。


有島武郎は大杉栄のシンパで、知られるとおりの理想主義者だったが、社会主義運動に次第に距離を感じるようになる。弱者(プロレタリアート)の戦いの正当性を認めつつも、弱者の「代弁者」となることは拒絶した。

それを明確にしたのが、大正11(1922)年に「改造」に発表した「宣言一つ」だ。文中、「第四階級」とは、ほぼプロレタリアートの意味である。


労働者は極端に口下手(べた)であったから(中略)知らず識らず代弁者にたよることを余儀なくされた。単に余儀なくされたばかりでなく、それにたよることを最上無二の方法であるとさえ信じていた。

(しかし)思慮深い労働者は、自分たちの運命を、自分たちの生活とは異なった生活をしながら、しかも自分たちの身の上についてかれこれいうところの人々の手に託する習慣を破ろうとしている。彼らはいわゆる社会運動家、社会学者の動く所には猜疑(さいぎ)の眼を向ける。

どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級な労働者たることなしに、第四階級に何者をか寄与すると思ったら、それは明らかに僭上沙汰(せんじょうざた)である。第四階級はその人たちのむだな努力によってかき乱されるのほかはあるまい。

(有島武郎「宣言一つ」)




同じ頃(大正10年)、プロ(レタリア)派作家と呼ばれ、堺利彦や荒畑寒村と行動を共にしていた尾崎士郎は、社会主義運動に欺瞞を感じて「逃避」する。その経緯を書いた「逃避行」は、彼の長編処女作になった。


(社会主義運動は)自分にとって単なる知識階級の行為より考えられないのだ。労働者階級のため! たとえいかなる言葉で叫ばれようともそれは嘘である。

彼らがいかに経済組織の変革について感激しようとも、畢竟、それは、労働者自身の生活の上に築き上げられた哲学、理想からは似ても似つかぬほど遠く離れたところにあるのだ。


思えば、1922年の有島武郎の「宣言一つ」から、今年は100年目だった。

1世紀を経て、彼らの文学的直感がいかに正しかったか、改めて認識されてもよかったのではないか。

有島はこの「宣言一つ」を発表した翌年に「情死」する。つまり2023年は、彼の死後100年でもある。

念のために言っておけば、有島も尾崎も、弱者や敗者への同情は人一倍持っていた。

来年のNHK大河ドラマは「徳川家康」だそうだが、戦時中、日本精神高揚のために歴史小説が推奨されたときも、尾崎士郎は勝者である徳川家康は決して書かないと宣言して、敗者の石田三成だけを書いた。(それでも、戦争に抵抗しなかったからと、尾崎は戦後「戦犯」扱いされた)

尾崎の研究者である都築久義が以下のように書いている。


尾崎の社会主義運動者への見方は、徹底してそれをヒロイズムと見、彼等は、小さな野望のために動いているにすぎないと断定している。それ故、知識人の労働運動は真実のものではない。自分も単なるヒロイズムだけから運動に参加しているなら、当然そこから「逃避」すべきである、というのが尾崎自身の発想であった。同時にそれは、労働者階級者以外の労働運動者への酷烈な批判だったのである。
(都築久義『尾崎士郎の生涯 実説人生劇場』p112)



この歳末も、黙々と人々のために、社会貢献をしている人たちがいるだろう。

そういう人たちは、マスコミの注目などは求めない。

それを「知識人」やマスコミが持ち上げたりするとおかしくなる・・まともだった人が狂ったり、運動自体が曲がったりする。

私の狭い人生経験の中でも、そういうことを度々見聞してきたから、ツイッターのトレンドに「colabo」と「帝銀事件」が並んだのを見て、何か言いたくなったのでした。











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