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「ピースボート」から「セームボート」へ ~西谷修「非戦論」へのツッコミ

年をとったせいか、私も性格が丸く、宥和的になった。

保守とかリベラルとかいって、そんな喧嘩せんでも、と思うことが多くなった。

最近では、保守内、リベラル内での内紛の話も多い。

日本人として、同じ船に乗ってるのだから、仲良くしなさいよ、と。

もう、そんな、喧嘩しているヒマはないと思うし。


これからは、「同じ船に乗っている(in the same boat)」を、政治の合言葉にすればどうか、と思いついた。

右と左に意見はわかれても、最後は「同じ船」なのだから、日本人としてわかりあえるはずだ、と。


海を漂う「ピースボート」思考


わかりあえないのは、リベラルと保守、左翼と右翼、ではない。

「セームボート(same boat)」に対立する政治概念は、「ピースボート(peace boat)」ではなかろうか。


この「ピースボート」は、いま私が考えた政治概念で、辻元清美がはじめた、あの「100万円で世界一周」とは直接関係ない。

「ピースボート」と「セームボート」、何となくゴロがいいから思いついたまでだ。

あの「ピースボート」とは直接関係ないが、でも、概念の上での連想は働いている。

私のいう「ピースボート」とは、

「どこの国にも属さない立場で、世界平和のために、なんかいいことをしましょう」

みたいな考えだ。

対して、「セームボート」は、

「同じ国民として、最終的に利害が一致することを前提に、国にたいして責任ある行動をしましょう」

といった考えになる。


西谷修の「非戦」


「ピースボート」な考えは、いまも生きている。

18日、西谷修(東外大名誉教授、哲学)が、東京新聞でウクライナ戦争を論じ、例によって「非戦」を説いていた。


「どんな戦争も正当化させてはいけない。戦争をとにかく止める『非戦』が現代に生きる人間の基本姿勢でなくてはいけない」


これが典型的な「ピースボート」の考えと言えるだろう。

私も、マスコミ業界にいるとき、こんな考えを、朝日や毎日の人からイヤというほど聞かされた。


この西谷の記事にたいしては、X上でも、多くの「つっこみ」があった。

明らかな事実誤認と偏った考えにより、願望のみが述べられている無価値な記事。酷すぎる


「第2次世界大戦後の国連体制で戦争は原則禁止とされたが、世界の秩序を守るためとして『自衛のための戦争』は例外とされた。」 ⇒ 間違い 正しくは、自衛権の行使としての武力行使は合法。


そのなかで、河野有理(法政大教授、政治学)のコメントが、いちばん簡にして要を得ていたと思う。


「戦争を起こしてはならない」に全振りしてきた思想が「起きてしまった戦争」について何も意味があることが言えないのは当たり前で、これはわざわざ聞きにいくメディアが悪いと思います。


まったくそのとおりだろう。

結局、戦後日本で、革新とかリベラルとか言ってきた、岩波・朝日・毎日の思想は「ピースボート」である。

それは、本来のリベラリズムとはあまり関係なく、宗教的信念としてのパシフィズム、平和主義に近い。

その信念により、「戦争を起こしてはならない!」と叫ぶのはいいが、戦争が起こってしまうといきなり無効になる。

(そして、日本の平和を実質的に守っているのは、平和主義者の「祈念」や憲法9条ではなく、憲法9条があるにもかかわらず存在する「日本軍」とアメリカの核の傘であることを否定する者はもう少ないのではないか。)


答責性の問題


こうした「ピースボート」的主張を全否定はしない。

非戦を唱え続ければ戦争は起きない、とすれば、それはけっこうなことだ。

それに私も、国から弾圧された場合を考え、海に逃れるための「ピースボート」はラストリゾートとして保持しておきたい。


しかし、井上達夫が論じた「NGOなどの答責性(アカウンタビリティ)のなさ」の問題が、ここにもある。

つまり、「ピースボート」的主張には、責任がともなっていない。何をしているか説明の義務もなく、実現の期限もない。主張が外れ、日本国民が被害を受けた場合の補償もない。

国際的に活動する「国境のない」NPOの一部は、そのとき、その場ではいいことをしたとしても、長期的には主体があいまいで、損害を与えたさいの責任がはっきりしない。

それと同じ、つまりは「言いっぱなし」の、海を漂う世界一周のような、よりどころのない主張なのである。


いっぽう、「セームボート」な考えは、同じ国の住民である責任を出発点にする。

国という「ボート」は、いまどきダサいかもしれないが、少なくともひとつの責任主体ではある。

国の決定には原則的に国民が関与できるし、主張を実現させる効力があり、責任を問う法がある。


世界平和を論じる理想論もいい。

「ピースボート」的活動をどんどんやってもらうのもかまわない。

でも、われわれは、公におこなわれる政治の議論を、責任のもてる範囲に限定する必要があるのではないか。

哲学者や神学者の「ピースボート」的議論はほどほどにして、これからは「セームボート」の考えでいきましょうよ、と呼びかけたいのだ。


もう転換は始まっている


そういえば、きのう、須田慎一郎のYouTubeチャンネルを見ていて、こんな話も聞いた。


【内閣改造】驚きの人事!?元国民民主党・矢田わか子氏起用の真相は?自民・国民の連立政権樹立の可能性も… その時、公明党・創価学会はどうなる!?(別冊!ニューソク通信 9月18日)


須田慎一郎によると、全トヨタ労連の委員長は、

「私たち全トヨタ労組が、辻元清美さんと一緒にやれると思いますか」

と言い、「私たちは憲法改正推進派」とも言っているそうだ。

(上の動画の9:30前後)


このトヨタ労組の言葉を聞いても思った。

私が言うまでもなく、人びとは、戦後日本をおおった「ピースボート」的思考から、脱しつつある。

「ピースボート」から、「セームボート」へ、乗り換えようとしている。

それを、「ピースボート」的思考にいまだ肩入れしているメディアが、「国民の分断」などと評している。

しかし、われわれの多くが「ピースボート」を脱して、「セームボート」の考えに移行すれば、日本の政治は劇的に変わるかもしれない。

これまで「分断」と見えていたものは消失し、意外に早く、現実的な政治が実現するかもしれない、と思った。



<参考>


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