週刊朝日「1億円スクープ」はなぜ見送られたか 新聞社系出版の悲しい運命
穴切史郎という元新聞記者の方が、noteで赤報隊事件のことを書き続けている。
赤報隊事件とは、言うまでもなく、1987年(昭和62年)5月3日、朝日新聞阪神支局の小尻知博記者が銃殺された他、赤報隊を名乗る一味がおこなった一連のテロの総称だ。犯人はつかまっておらず、赤報隊の正体はいまだ不明。
穴切氏の7月11日の記事は、ことに興味深かった。
「赤報隊=野村秋介黒幕説に違和感あり」元朝日新聞キャップの異論(穴切史郎note 7月11日)
このnote記事は、文藝春秋2023年6月号の「朝日襲撃「赤報隊」の正体」と、それに対するFACTA7月号の樋田毅氏(元朝日新聞記者)の反論を取り上げている。
詳しくは上記記事を見てほしいが、本筋の阪神支局襲撃事件(どのみち結論は出ていない)より面白いのは、リクルート会長・江副浩正自宅が赤報隊に銃撃されたあと、リクルート社が右翼の大物・野村秋介に「右翼対策費」として1億円支払ったという話だ。
その事実は、今回の文藝春秋記事で初めて世に出た形らしい。
江副浩正自宅襲撃事件は1988年(昭和63年)8月10日に起こった。
昭和のあいだ、とは言わずとも、平成の前半に明らかになっていたら、大スクープ扱いだったろう。
しかし今では、野村も江副も亡くなり、江副の自宅が赤報隊に襲われた、という事件も忘れられていると思う(正直私も忘れていた)。
その「1億円」を、野村が赤報隊事件に積極的にかかわっていた証拠と見るか(文春説)、あるいは、野村が赤報隊事件をダシに脅しを働いていたーーだからむしろ赤報隊と無関係な証拠ーーと見るか(樋田説)。両説の比較衡量が穴切氏の主題である。
特ダネはなぜ隠されたか
しかし、私が面白いと思ったのは、その「いまさら」感が強い「1億円」授受スクープそのものでもない。この「1億円ネタ」がたどった歴史である。
1億円のスクープは、そもそも15年前(2007年、平成19年)に週刊朝日のA記者が突き止めたネタだった。その週刊朝日のAは、元文春の記者だった。
その週刊朝日の特ダネを社内で止めたのが、当時朝日新聞に在籍し、赤報隊取材班のキャップだった樋田毅氏だ。
樋田氏は、朝日新聞編集局の指示でA記者の特ダネを吟味し、説得力に乏しいと判断した。2008年に朝日新聞出版局は「株式会社朝日新聞出版」として独立するが、樋田氏のチェックは続き、結局、このネタは週刊朝日に掲載されなかった。
話はそれで終わらない。樋田氏は朝日退社後、赤報隊事件の取材をまとめた『記者襲撃』(2018)を岩波から出すが、そのときに「1億円ネタ」を本に使わせてほしいとA記者に頼んだ。しかし、A記者はそれを突っぱねる。
それと同時に、朝日新聞社が岩波に対し、「在職中の取材内容は朝日に著作権がある」と出版前のチェックを求めてきたが、岩波はこれを突っぱねる。
というわけで、樋田氏の『記者襲撃』は「朝日チェック」なしに無事出版されるが、A記者の「1億円ネタ」は載せられなかった。
その「1億円ネタ」が、文藝春秋2023年6月号で、ようやく日の目を見たというわけだ。
文藝春秋記事の執筆者は「本誌取材班」だが、中心はA記者に違いない、と穴切氏は見ている。
(そして、それをまたFACTA誌で樋田氏に「チェック」されたわけだ。)
「新聞>出版」という社内カースト
朝日社内で出版局の原稿をチェック(検閲)した樋田氏が、社をやめると、今度は朝日から原稿をチェック(検閲)される立場になる、という因果応報が面白い。
そして、特ダネを樋田氏(その背後にある朝日新聞編集局)に事実上つぶされたA記者の悔しさは、穴切氏とともに、私にもよくわかる。
ここには、出版局が編集局(新聞を作るところ)の植民地のようになっている社内カーストが反映している。いま新聞社の出版局は、人件費を下げるために、ナントカ新聞出版と子会社化されているが、その「カースト制度」は変わっていないだろう。
穴切氏は、こう書いている。
朝日新聞社内に古くから「新聞が本流、雑誌は傍流」という根深い上下意識が存在するということは、これまで複数のOBや現役社員によって繰り返し指摘されてきた。恐らくこれは朝日に限らず、日本の新聞社が共通して抱えてきた悪しき文化だろうと思う。
本来、週刊朝日は朝日新聞とは別の独立したメディアのはずである。しかも、2008年4月には分社化によって発行元が株式会社朝日新聞社から株式会社朝日新聞出版に代わっているので、朝日グループ内の子会社とはいえ組織の上でも独立した存在になっている。
なのに週刊朝日編集部は、所属記者が独自につかんだネタを報じるにあたって、なぜか朝日新聞116号事件取材班のもとへ何度も足を運び、ゴーサインを得ようとした。
(中略)
要するに、ヒエラルキーの下層に位置する週刊朝日には、少なくとも赤報隊報道に関する限り「編集権の独立」が存在していなかったのだ。
私も、オウム真理教事件をモデルにした小説「1989年のアウトポスト」(現在改作中)を書くとき、当時の記録を読んで、「サンデー毎日」の難しい社内的位置を感じざるを得なかった。
編集部がオウム事件を追及しようとしても、新聞(編集局)の意向を気にせざるを得ない。その意味で、出版に「編集権の独立」があったかは疑問だ。
あの事件では、最初にオウム追及を始めたサンデー毎日は、坂本弁護士一家失踪事件(当初はそう見られた)があった後、急に腰が引ける。そこには、新聞社の一部局である出版局では手に負えなくなった社内事情があったのではないか。その後オウムをしつこく追及し続けたのは、文春など出版社メディアだった。
新聞社の名を冠している以上、外からは週刊誌でも新聞と同等と見られる。週刊朝日のハシシタ事件がそうだったし、オウム事件の場合も、オウムの側から見れば、「サンデー毎日」も「毎日新聞」も同じで、それが問題を複雑化・深刻化させている。(麻原は、毎日新聞本社の爆破や、毎日新聞と関係ある宗教団体会長の殺害まで考えていたという)
そのことを考えれば、新聞が出版を掣肘する理由はあると言える。だが、そのために出版は自由を縛られ、出版競争の中で独自性を出しづらく、ますます経営が苦しくなるジレンマがある。(ご承知のとおり、週刊朝日は休刊した)
新聞社の出版は、出発は高校野球と同じような新聞社事業の1つだが、すでに昭和の時代に、新聞記者がついでにやって成り立つビジネスでも、元新聞記者が定年までの時間つぶしにやるようなビジネスでも、なくなっていた。
読売グループの中央公論社は、もともとが独立した出版社だし、ジャーナリズムと競合しない歴史書などで独自性を出すことに成功していると思うが、それでも「本社」との軋轢はあるだろう。
扶桑社も、皇室問題などで産経新聞と摩擦があることを、小林よしのりのブログで読んだ記憶がある。
新聞と出版は、軽減税率の議論でも明らかなとおり、性格を異にする業界である。新聞社系出版が、出版界という別の世界で生きていこうとすると、どうしても矛盾に突き当たる。社内的矛盾というだけでなく、それは世間に影響をおよぼす類の矛盾である。オウム真理教事件の場合、サンデー毎日の追及が中途半端に終わったことが、のちの大事件を招き寄せたとも言える。
新聞は出版から完全に手を引くか、まったく別会社として完全独立させるか、どちらかにすべきだろう。
赤報隊をめぐる穴切氏の今回のnote記事を読んで、その思いを強くした。
ところで、週刊朝日の休刊にさいして、私はかつての週朝編集長、穴吹史士のことを書いた。
穴切史郎って名は、なんか似ているね。
<参考>