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私とキリスト教

以前、若いときは感動したが、今ではそうでもない本がある、と書いた。


その中で、G・K・チェスタトンの「正統とは何か」に毎ページ付箋をつけるほど熱心に読んだが、いまではその心境がわからない、と書いた。

チェスタトンだけでなく、モーリヤック、パスカル、C・S・ルイス、カール・バルト、トマス・ア・ケンピス、アウグスティヌスなど、キリスト教文学者、思想家の本ばかり読んでいた一時期があり、その痕跡がまだ書棚に残っている。

ごくごく個人的なことだが、その頃は人生最悪の時期で、立ち直るきっかけになってくれたのが、それらキリスト者の本だった。

音楽は、バッハのカンタータばかり聴いていた。

キリスト教の言い分が、心に染みるほどよくわかった。本当に、涙を流して読み、聴いていたのだ。


私は結局、キリスト教徒にはならなかった。

その後、心身の健康を回復し、今では、それ以前と同じく、世俗主義の、自由主義の、啓蒙主義的なリベラルである。

しかし、キリスト教への感謝は忘れていない。

キリスト教に限らず、宗教全般を尊重するようになった。

宗教でしか救われない次元が人間にあることを知っているからだ。


ところで最近、私は小林よしのりの悪口ばかり書いてきた。


ジャニーズ問題がきっかけだが、本来私は小林は嫌いではないから、本意ではない。

小林が、毎日のように変なことを書くからいけないのである。

キリスト教に関しても、昨日、こんなことを書いていた。

ジャニーズ罵倒主義者は、男色の日本史を勉強しない。
過去と現代が繋がっていることに気づかない。
日本人の感覚・常識と、キリスト教を基盤とする欧米人の感覚・常識が、全く違っていることに気づかない。


まず、ジャニー喜多川は、男色だから「罵倒」されているわけではない。

小林は、何をずっと勘違いしているのだろうか。

小林の理屈だと、ジャニー喜多川の被害者が少女だったら問題だったが、少年だったから、日本の男色の伝統により、許される、ということになるのか。

小林には子供がいないようだが(私もいない)、自分の子供が男の子だろうと女の子だろうと、他人から嫌なことをされて、それを許すのか。


その根本的な認識の誤りとともに、気になるのは「キリスト教」の言及の仕方だ。

なるほど、キリスト教徒の人口は日本で1パーセントを超えないとしても、江戸時代の殉教者や、明治以来の開明的なキリスト者の運動を無視して、日本人の歴史=日本史が語れるとは思えない。

こういうキリスト教=「一神教」=「狭い価値観」、という図式は、戦前から日本の似非知識人がよく使うが、小林がいまだにこんな論法を使うとはがっかりだ。

言わせてもらうと、キリスト教理解が浅すぎると思う。ジャニーズ問題をきっかけに、小林はどんどん馬脚を現していて、見ているのが辛い。



チェスタトンやルイスの本は、いわゆる護教論だが、政治的・時代的には「反共主義」の文脈に入る。

宗教はアヘンだ、という19、20世紀の唯物論、共産主義に対抗する意図があった。

そしてご承知のとおり、チェスタトンの「正統とは何か」は、保守主義の聖典でもある。


日本では、戦中の戦争協力への反省・反動から、戦後のキリスト教は、仏教とともに、容共・左傾化した印象がある。

そういう護憲・平和主義的なところも「昭和的」だと思う。いわゆるカッコつき「リベラル」と、キリスト教系の団体が「共闘」することは、今でもよくあるようだ。

私も昔、リベラルの範囲で「君が代」強制反対運動などをやっていたころは、牧師さんのお世話になった。だから悪くは言いたくないが、宗教者には別の役割があるだろうと思う。

ここ数年も、牧師や坊主が、朝日新聞みたいなことを言うのを聞いて、私は何度もがっかりした。


カエサルのものはカエサルへ。宗教は政治に関わらないのが本来だろうが、社会に対しては、宗教だから「反動的」部分も、ときに必要だと思う。

アメリカでLGBTや堕胎に反対しているのはキリスト教右派だろう。

上の小林よしのりの議論でも、「男色」にキリスト教右派が反対している点を問題だと指摘するなら、小林は正しい。

しかし、ジャニー喜多川とジャニーズ事務所を指弾しているのはそちらではなく、主にそちらに対抗する勢力=人権派、リベラル派である。その点でも小林の議論は筋違いだ。

そして、キリスト教右派が「男色」を批判するとしても、それは日本文化に無理解だからではない。アメリカ人だろうが日本人だろうが、彼らが性的逸脱とみなす行為を普遍的に非難するのである。


私はリベラルとして、キリスト教右派の主張を肯定できないが、理解はできる。ある種の倫理的な厳格さが、宗教の意味だと思うからだ。

既成宗教が「リベラル化」しすぎ、倫理的に甘すぎると、もっと過激に厳格なカルトがはびこることになると思う。

イスラム教と張り合え、とは言わないが、宗教として独自の倫理観を押し出せないと、存在意義がないと思うのだ。

そんなことでは、以前書いたように、新聞読者同様に信者が減っていくだけだと思う。


まあ、ともかく。

私はエラソーに言うほどキリスト教をわかっていないかもしれないが、これだけは言える。

私は反共主義ではないが、自分が共産党や左翼に入る可能性はゼロである。

しかし、キリスト教徒になる可能性は、まだ10パーセントくらいある。



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