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小林よしのりがジャニーズ問題でひどい 非暴力「反ジャニーズ」主義のススメ

政治的方向性は違うが、小林よしのりに共感することが多い、と数日前に書いた。


しかし、ジャニーズ問題に関する、小林のこのところの論調は、「ひどい」の一語に尽きる。以下のとおり、ジャニーズ擁護が過ぎるのだ。いささかも共感できない。


ジャニーズ問題の日本人のイカレ具合を見ていると、日本人は江戸時代以前の日本の歴史を全く知らないということに気付いた。

江戸時代までは日本人は男色文化が浸透していて、特に少年を性の対象にする文化が普通だったということを、誰も知らない。

北公次や豊川誕の昔からジャニー喜多川の性癖は有名だったのに、我が子をジャニーズに入れたがった親の感覚も、好意的にとれば、江戸時代までの日本人の感覚を継承していたからだろう。

現代のファンの少女の間でも有名だったのに、それでも親が「知らなかった」というのは、もはや自己責任であり、あとは本人が嫌だったら逃げるしかなかった。

枕営業的に受け入れていたから、成功しなかった自分への慰めとして、死者に鞭打つ道を選んだのだろう。(ゴー宣ネット道場 8月7日より抜粋)


いくら自分がアイドルが好きで、ジャニーズが好きで、キムタクが好きだからといって、被害者をそこまで冒涜することはない。

小林は、昭和の少年ジャンプ最盛期の勝ち組だけあって、エンターテイメントにおける「弱肉強食」「優勝劣敗」への肯定感が強すぎるのではないか。

デヴィ夫人と同様で、こういうところに、右派の暴力性が出てしまう。

私は保守主義者ではないが、こんな非人情なことを言うのは、正しい保守的態度と思えない。



「好意的にとれば」、小林の異常な反応は、ここぞとばかりに、にわかの「反ジャニーズ」が湧いてきたからではないかと思う。

いままで黙っていたくせに、という気持ちはわからないでもない。

反ジャニーズに関しては、私を見習ってほしいと思う。

私は、ジャニー喜多川が死んだから、あるいは、「国連」が出てきたから、「ジャニーズ批判」に唱和するわけではない。

以前にも書いたが、1999年の文春報道、そして2001年の「稲垣メンバー」報道あたりで、私は完全に「反ジャニーズ」になった。

反ジャニーズになるとともに、ジャニーズに「買収」されたマスコミが大嫌いになり、特に「週刊朝日」(←もうないけど)「アエラ」「サンデー毎日」など新聞社系が「買収」されたことが許せなかった。

それも、今回の告発以前から、このnoteで何度も書いた。

ジャニーズの人が出演しているものは、一切見ない。

テレビはもともと見なかったから助かったが、困るのは映画だ。

話題の日本映画を見たいと思うのだが、ジャニーズ出身の人がよく出てるので見られない。

とくに岡田准一という人が、私の見たい映画によく出ていて困る。

最近も、アマプラでやっていた「来る」という映画が面白そうなので見始めたら、途中で岡田が出ているとわかって見るのをやめた。面白そうだったのに!



しかし、そういう不利益を自らに課すことこそ、私の「運動」だ。

それで困るのは私だけだが、それでいいのだ。

「日本人はみんなジャニーズの共犯だった」という物言いに、私自身を反証にできる。それも大きい。

「ジャニーズ問題」の流行り廃りにかかわらず、一貫して反ジャニーズである。


私の反ジャニーズは、憲法9条にのっとった、非暴力無抵抗主義である。

つまり、ジャニーズがテレビや映画に出ることに、私は抵抗しない。どうぞいくらでも出てください、と思う。私は見ないだけだ。

そして、ジャニーズのファンの人々にも、決して暴力的なことは言わない。妨害しない。ファンは悪くない。どうぞ好きであれ〜、と思う。

ただ、noteみたいなところで、ジャニーズへの嫌味は書かせてもらう。これをサボタージュという。


反対や抵抗が行き過ぎてしまうと、逆効果を生むのはよくあることだ。

被害者の告発は尊重されるべきだが、今になってことさら「反ジャニーズ」している人たちは、私も必ずしも好きではない。

直接の被害者以外は、私のように無抵抗非暴力主義で、こそこそと、淡々と、しかし断固として「反ジャニーズ」を続けるのが正しいやり方だと思う。

いつかジャニーズ事務所とマスコミに天罰が下ることを信じて。



<参考>


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