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いつも「ものが売れない」と嘆いている人たち 「若者の消費離れ」について

40年前と同じ物言い


週刊文春オンラインの「『預貯金0円が17%』持ち家、車、高級ブランド…若者の”消費離れ”が起きている本当の理由とは」(廣瀬涼)という記事を読んでいて、懐かしいなあ、と思いました。

(文春記事は廣瀬氏の『あの新入社員はなぜ歓迎会に参加しないのか: Z世代を読み解く』という本からの抜粋。)


若者が消費しなくなった、という話ですが、これは、私が若者だった40年前にも言われていました。

たとえば、文春記事の以下のような部分、

そもそも「画一化された幸福」を幸せであると思わない人々が増えた。そのため、「自分が必要としないもの」に対して消費を行う際に、“理由”や“根拠”が必要になったともいえる。


こういうことは、1980年代のマーケティングの本でも言われていました。たとえばーー

何をつくっても売れない、どんな商品もヒットしない、ヒットしてもポテン・ヒットだ。そんな状況が何年も続いている。一体、あの「大衆」はどこへ行ったんだ。
以前は隣が買ったからうちも買おうとか、みんなが買ったから自分も買おうといったものが、いまはまるで逆になりました。みんな買うなら自分はいやだと。
『さよなら、大衆』(PHP研究所、1984)


『さよなら、大衆』の著者、藤岡和賀夫は、電通PR局長でした。「いい日旅立ち」などの国鉄キャンペーンを企画した有名な広告マンですが、2015年に亡くなっています。

藤岡のこの本は、当時大きな反響を呼び、「ものが売れない時代に、どう売るか」みたいな同工異曲の本が1980年代を通じてたくさん出ていました。

「テレビのパワーがなくなった」というのも、この本の中ですでに言われています。ネットが登場する10年以上前のことです。

人びとはテレビに操作されなくなった。現代人は、イメージ上の「大衆」がどうなっているか、参考にするためだけにテレビを見ている、と書いています。

その部分は、いま読んでも鋭いですが、たぶん社会学者のボードリヤールの影響があるのでしょう。

こうした変化は、しかし、テレビだけでなく、ラジオにも新聞にも、大部数の雑誌にも起こりつつあるもので、云ってみればマス・メディアすべてが「参考メディア」時代に突入してしまった。
『さよなら、大衆』p63)


「参考メディア」という言葉で、藤岡は、マスメディアの広告が消費に結びつかなくなったことを指摘しています。実際、広告業は1985年、「昭和60年広告不況」と呼ばれた、理由のはっきりしない落ち込みを経験します。

上掲の文春記事では、廣瀬氏は「メントスコーラ・チャレンジ」の例を挙げて、「結果がわかっていることを、自分で改めてやろうとはしない」と、SNSが若者の「参考メディア」になっていることを説明しています。

藤岡が40年前にテレビについて言ったのとほぼ同じことを、廣瀬氏が現在のSNSについて言っているのがわかるでしょう。

つまり、廣瀬氏の議論は、当時のいわゆる「分衆・小衆」論を想起させるのです。

(そして、1986年に出たTBS調査部『「新大衆」の発見』は、そうした議論自体が消費を抑制した、と八つ当たり気味に「分衆・小衆」論を批判しました)


バブル期の誤ったイメージ


『さよなら、大衆』が出たのは、円の切り上げを決めたプラザ合意とほぼ同時期です。

バブル期はそこから始まるのですが、それ以前、1980年代前半から「なんとなく、クリスタル」や「女子大生ブーム」があり、若者がぜいたくをしているイメージがありました。

しかし、この時代の一般人はそれほどカネを持っていたわけはありません。1983年の「国民生活白書」は、住宅ローンと教育費が家計の負担になり、消費が細っていることを指摘しました(博報堂生活総合研究所『「分衆」の誕生』p153)。

まず当時の大学進学率は40%弱で、現在の60%とくらべると、まだだいぶエリートだったことがあります。その大学生も、ブランド品は見栄のために、丸井や学生ローン、サラ金のローンで無理して買っていました。

つまり、見栄のために家を買い、見栄のために子供を大学に入れ、その大学生は見栄のためにブランド品を買いーーしかし、実態はみんな借金漬けで、ものをばんばん買えていたわけではないのです。


そして、1980年代後半は、いわゆるバブル期です。文春記事の筆者、廣瀬涼氏は1989年生まれの若い人のようですが、そういう人から見れば、それこそ高級ブランド品がばんばん売れていた時代のように思われるかもしれません。

上の文春記事で、廣瀬氏はこう書いています。


かつて、消費することが幸せにつながる時代があったが、それはお金に余裕があってこそ実現するものであった。昨今は、ファストファッションや格安スマホなど、安いモノに消費をすることで支出を抑えることが一般化しており、羽振りよく、湯水のように消費していたバブル時代とは真逆の市場環境であることには留意したい。


しかし、それは間違ったイメージなんです。バブルで上がったのは、土地と株です。庶民も、若者も、そんなものは普通持ちません。

「羽振りよく、湯水のように消費していた」者がいたとしたら、自社の資産価値が上がってニューヨークの不動産を買いまくっていた日本企業とか、一部のバブル紳士だけでしょう。

私と同期では、銀行や証券会社に就職した奴らは景気がよかった。入社したてでも、ボーナスを当時で100万、200万もらっていましたからね。

でも、それ以外の私のような貧乏人は、むしろアパートの家賃が上がって、消費に回すカネがなくなりました。だから、みんないよいよサラ金漬けです(そしてサラ金の取り立てが社会問題化します)。

何より、地価がバカみたいに上がったから、どうせ家は買えない、と思い、貯金もせずに、その日暮らしで消費していました。

文春記事によれば、いまの若者は、持ち家を諦め、貯金もあまりしない。それは、バブル期の一般的若者と、そんなに違いがないと思うんですね。

やがてバブルがはじけて、株価が永遠に上がり続けると信じていた証券会社の人たちも、痛い目を見ることになりました。


若者はいつも貧乏だ


余談ですが、バブル期にカネめぐりがよかった都会の実家住まいの若者(家賃を払わなくていいからすごく有利)も、典型的なものの消費には向かわず、趣味の消費に走る傾向がありました。

それがオタクの誕生に結びついたのではないか、と私は思っています。彼らのおかげで、その後の世界に冠たるオタク文化ができたのでした。のちに出版界などで活躍する文化人の多くも、首都圏の実家持ちでした。

いまの若者たちは、かつての「見栄消費」や「オタク消費」もできないほど困窮しているのかもしれない。それはかわいそうですけどね。

でも、一般の若者は、どんな時代でも貧乏でしたよ。いまの時代の若者にだけ被害者意識を持たせるべきではないと思います。


ずーっと「活字離れ」


私の記憶では、いつの時代も「ものが売れない」と言われてきました。

私はマスコミにいましたが、「本が売れない」「活字離れだ」は、私が物心ついて以来、ずっと言われていました。

私がマスコミに入った1980年代なんかは、出版点数で言えば史上最高だったんじゃないでしょうか。ミリオンセラーもばんばん出ていました。当時の初版部数の基準は8000部くらいで、たぶん今の2倍近いのではと思います。

それでも「本が売れない」と言われていた。なぜかといえば、本を作りすぎていたからです。

当時は「出版洪水」と言われ、同時に「返本洪水」と言われていました。書店はいまよりも街にたくさんありましたが、それでも本屋に並べ切らないほど本が出ていたのです。

だから返本が多く、出版社も在庫の山で、「本が売れない」と嘆いていたわけですね。実際、平凡社や中央公論社などが傾きました。そしてみんな、百科事典とかがばんばん売れていた「昔」を懐かしんでいたのでした。


「消費離れ」のほんとの理由


なぜ、いつの時代も「ものが売れない」と言われるのか。

それは、消費者の側の問題ではない、と思います。

返本洪水の例でわかるとおり、いつも生産過剰なんですよ。だから、将来から振り返ればものが売れていた時代でも、同時代には生産者が「ものが売れない」と嘆いている。


「供給が需要を喚起する」というセーの法則は、いまでも言われているのでしょうか。

供給すれば需要はあとから付いてくる、という信念みたいなものは、昔から根強かったですね。

私も、現役時代は、とにかくものを作らなければ始まらない、と考えていましたからね。

そう考えている一方で、じゃあ他人の作っているものをそんな買ってるかというと、買ってないわけですね。カネがないから。


いつの時代も同じことを言うのはバカみたいだ。

消費しないのはおかしい、悪い、間違っている、とは限らない。

ものが売れない、消費離れだ、と言う前に、ものを作りすぎていることを反省しましょう。



<参考>






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