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デブオタと追慕という名の歌姫 #01

いじめられっ子少女を伝説の歌姫にしたのは名もないアイドルオタだった…

【あらすじ】
聖地巡礼中の英国で日本のアイドルオタ「デブオタ」は偶然イジメの場面に遭遇する。その様子は日本で底辺と虐げられた自分の境遇と重なり、彼は思わず喧嘩を買って出た。
悪罵を罵倒で叩き返した彼は自分を音楽プロデューサーと偽り、いじめられていた少女エメルをトップスターにしてやる!と、いじめていた歌手志望の少女リアンゼルへ宣戦布告する。
理不尽な世の中に反抗するようにデブオタは怪しげなプロデュースへ全力を注いだ。そんな彼の哀しい想いを知ったエメルは修練を重ね成長する。そして次第に彼に惹かれていった。
一方、リアンゼルも憎悪を糧に己を磨き、二人は遂に歌姫の頂点を決める英国最大のオーディションのステージ上で対峙する。
だが、そこで思いもよらぬ出来事が彼等を待っていた。
汗と涙と挫折と、そして栄光と衝撃と別離と……歌姫への階段を駆け上がった少女がステージで最後に見たものは……

「アイドルオタが歌手をプロデュース」という異色のシンデレラ物語です

【目次】
第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男 ①
第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男 ②
第2話 デブとヘタレの二人三脚 ①
第2話 デブとヘタレの二人三脚 ②
第3話 見えない何かが変わり始めて ①
第3話 見えない何かが変わり始めて ②
第3話 見えない何かが変わり始めて ③
第4話 それぞれに見出したもの ①
第4話 それぞれに見出したもの ②
第4話 それぞれに見出したもの ③
第4話 それぞれに見出したもの ④
第5話 やがて慟哭という名の雨 ①
第5話 やがて慟哭という名の雨 ②
第6話 夜明けに向かって ①
第6話 夜明けに向かって ②
第6話 夜明けに向かって ③
第7話 衝撃と栄光と別離 ①
第7話 衝撃と栄光と別離 ②
第7話 衝撃と栄光と別離 ③
第7話 衝撃と栄光と別離 ④
第7話 衝撃と栄光と別離 ⑤
第7話 衝撃と栄光と別離 ⑥
第7話 衝撃と栄光と別離 ⑦
第8話 追慕という名の歌姫 ①
第8話 追慕という名の歌姫 ②
第8話 追慕という名の歌姫 ③
最終話 それは奇跡のように ①
最終話 それは奇跡のように ②


第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男 ①


「うぉぉートイレ、トイレ、トイレはどこだぁああああ!」

 うららかな春の昼下がり。
 日本人とおぼしき一人の巨漢がいま、イギリスはロンドン近郊にある小さな公園の中をうめきながら彷徨していた。
 身長は一九〇近く、相撲取りと見まごう体格をしている。着ているTシャツには某人気アニメの美少女がプリントされていたが、男のはち切れんばかりの肥満体によって彼女の笑顔は極限まで横に引き伸ばされ、妖怪と化していた。
 かわいそうに、通りかかった幼稚園児がその恐ろしい笑顔をまともに見てしまい、わあっと泣き出した。傍らの母親が慌てて連れ去ってゆく。
 これだけでも見るに耐えない光景だというのに、男はお腹を壊しているらしい。内股で腹を両手で抑え、まるでチャップリンが踊っているような恰好で公園の中をウロウロしていた。
 彼の容姿はどこから見てもマッドサブカルチャーの聖地、日本の秋葉原からそのまま瞬間移動してきたような気持ちの悪い容姿の太ったオタク、俗に言う『デブオタ』だった。
 公園の散策を静かに楽しんでいたイギリスの紳士淑女達は、せっかくの雰囲気をブチ壊すこの異国の不審者へ訝しげな眼差しを向けていたが、当の本人はそんなものを今気にしている場合ではなかった。
 脳内では嵐のように緊急警報が鳴り響いている。
 それは、ありったけの力で阻止している下半身の危機がもはや限界であることを彼に告げていた。

「と、トイレは誰? 私はどこ?」

 切羽詰まっているので、尋ねる言葉ももはや支離滅裂な日本語である。
 理解出来ない日本語を鬼気迫る顔で問いかけられたのは品の良さそうな老婦人だったが、無論答えられるはずがない。彼女は「ア、アイムソーリー!」と叫ぶや怯えた顔で一目散に逃げ去ってしまった。

「くっそおおお、トイレはどこだって聞いてんのに何が『私は総理』だよ。イギリス流のジョークって奴か? ったく、こっちはそんな余裕なんてねえっつーの」

 言った言葉も聞き取った言葉もおかしいのは彼の方なのに、てんで気が付いていない。

「って、そんなこたぁどうでもいいんだ。あうう、お腹が、お腹がもうメルトダウン寸前だ。いかん、このままでは日英間の国際信用に関わる深刻な事件がもうすぐ起きる……」

 ブツブツ独り言をつぶやきながら四方を見回したデブオタは、ふいに「おおっ!」と、眼を輝かせた。
 やや離れた場所で緑の茂みに隠れるように設置された、煉瓦造りの小さなトイレをついに発見したのだ。

「トイレの神は遥かイギリスの地においても日本のオタを見捨てたまわず! 急げ、オレ様よ。下半身滅亡まであと一分と三十八秒、あと一分と三十八秒しかないのだ」

 地球滅亡へのカウントダウンを訴える某宇宙戦艦アニメのナレーションみたいな独り言と共に、デブオタは一目散にトイレへと突き進んでいった。
 トイレへ続く小道の両脇には花壇が置かれ、ひとつひとつ花が丁寧に植えられている。
 スミレ、デイジー……きっと公園の管理人や心あるボランティアが手入れしたものだろう。
 彼女たちは可憐な花々をさやさやと風に揺らし、崩壊寸前の下半身を抱えてトイレへ急ぐデブオタを道の脇から優しく応援していた。

**  **  **  **  **  **

「ふう、助かったぜ」

 間一髪で破滅の危機を脱したデブオタは、腰掛けた便座の上でホッと息をついた。
 レバーを回して轟々と流れる水の音が耳に心地よく響いてくる。

「イギリスまで来てお腹を壊すとは参ったぜ。さてはさっきの屋台の親父が黒幕か。日本人のオレ様を毒殺するつもりでフィッシュアンドチップスに一服盛りやがったんだな、ちくしょうめ」

 ブツブツ言うと、彼はふっとキザな仕草で前髪をかき上げた。

「だが甘かったな。この程度のトラップでオレ様を倒すなど笑止千万よ」

 さっきまで漏れそうなお尻を抱えて公園中を徘徊していた醜態などどこへやら、アニメの見過ぎとしか思えない憎まれ口で独り格好つけたが、トイレの個室は彼一人なので突っ込む者は誰もいない。
 緊張の解けた彼は「あーやれやれ」と、大きく伸びをした。
 トイレは少し古びてはいたが、まめに掃除されているのか臭気もほとんどなく清潔だった。内装は綺麗で便器も汚れていない。使う人もモラルを守って利用しているのだろう。トイレットペーパーも十分な量がホルダーに残されていた。

「へえ、日本の公衆トイレと変わらないぐらいちゃんとしてんな」

 ちょっと感心したようにトイレの中を見回した彼の耳に、その時、ごく微かに音楽が聞こえてきたような気がした。

「うん?」

 耳をそばだてるとそれは確かに幻聴などではなかった。
 トイレの傍の植え込みから、誰かがごく小さな声量でハミングしていたのである。
 ハスキーでささやくようなハミングは、デブオタの耳にはまるで蚊が鳴いているように思えたが、しばらくすると誰も気づかないことに安心したのか小さな英語の歌声に変わった。
 何の歌かはすぐにわかった。
 グリーンスリーブス。世界中の人が知っているイギリスの古い歌である。切ない愛の歌を透き通るような少女の声が優しく歌い上げている。

(だけどえらく遠慮しいしい歌っていんな。聴いててかわいそうなぐらいだ)

 デブオタは、自分の気配を悟られないように音を立てずに気をつけながら耳を傾けた。
 どんな少女なのだろうか。声からして十代の半ばくらいのようだった。
 誰かに聴かれるのを恐れているような小さな歌。
 美しい歌だとデブオタは思った。
 下手に音でも立てようものなら彼女は歌い止めてしまうだろう。怯えて逃げてしまうかも知れない。
 彼女に気づかせず、歌い飽きるまでここで聴いていようと彼は思った。

 だが、そんなささやかな思いやりを台無しにして、歌声を断ち切ったのは別の少女の声だった。

「うわ、またこんなところで歌ってるの。さっさとどこかに消えなさいよ」

 それは美しいイントネーションの英語だったが邪悪なくらいの悪意が籠もっていて、歌い手が怯えて竦む気配が彼に伝わってきた。

「あのね、エメル。さっきのはもしかして歌のつもり? 歌を何だと思ってるの? バカにしてるの? アンタはそんな歌モドキなんて歌っちゃいけないの。歌う資格なんかないの。日陰でイジけてなさい。と、言うよりここから消えて。日本に帰って」

 いきなり酷いこと言ってやがる。それより日本に帰れって言うことはさっき英語で歌っていたのは俺と同じ日本人ってことか? と、デブオタは壁に耳を寄せた。

「そもそもここは歌を歌う場所なんかじゃないの。ハーフのアンタがイギリスにいるのも不愉快だし、歌っているのも不愉快だから。私が言ってること理解出来る? だったら私の視界からどっかに失せてちょうだい。いっそドーバーから海にでも飛び込んで死んでくれたらいいのに」

 おいおい、ちょっと言いすぎだろ。こりゃもしかしなくてもイギリス流のイジメって奴か? と、彼は顔をしかめたが、非難を浴びている方はただ黙っていた。
 それをいいことに、非難する声はますます毒を孕んでゆく。

「聞こえてないの? とにかく歌わないで。歌って云うのはね、歌うのにふさわしい資格がある人に許された特権なの、私のようにね。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションで……まぁ落選しちゃったけど、もう少しで優勝出来たはずの私みたいな人しか歌っちゃ駄目なの、わかる? ヒバリやツグミは歌っていいの。ガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの」

 おい、人として言っていいことと悪いことがあるだろう

 この世の常識だと言うようにヒエラルキーを説く言葉に、デブオタの顔から苦笑じみたものが消えた。次第に、怒りがこみ上げる。

「あなたはクズなの、ゴミなの。日向には出てきちゃいけないの。この世には光を浴びるべき存在と、日陰にいるべき存在があるのよ」

 やめろ、いい加減にしろ

 鼻を啜り上げる音が聞こえる。いじめというにしても、とうに度を越していた。
 容赦のない追い討ちの言葉に、握り締めたデブオタの拳が怒りで震える。
 蚊の鳴くような声で歌っていた少女は言い返すことも出来ず、泣いているようだった。

「私は光に当たるべき存在なの。あなたみたいに日陰の存在は光を浴びるべき存在の邪魔になっちゃいけないの。私の視線に入らないで。今すぐどこかに消えて」

(日陰者のファンごときがアイドルに意見するんじゃねえ! イヤなら今すぐどこかに消えろ!)

 ふいに――
 彼の脳裏に日本で浴びせられた言葉が蘇った。

(恋人がいたのが許せねえだと? 今まで応援してあげたのに酷いだと?)
(お前ら自分の立場わかってんのか? ああ? キモオタどもが上から目線で物を言うんじゃねえ!)
(貴様らはな、あの娘がステージやアニメで輝くための養分なんだよ! 身分を弁えろ、クズどもが!)
(養分が意見なんかするんじゃねえ、ましてやキモいオタ芸なんか見せるんじゃねえ。手前らは黙って金出して応援してりゃいいんだよ! 文句があるならファンなんかやめて今すぐ消え失せろ。手前らの代わりなんざ幾らでもいるんだよ!)

 それは、彼が日本で応援していた声優アイドルのステージでの出来事だった。
 恋人の発覚を知ったファン達が口々に抗議したとき、彼女の所属するプロダクションのスタッフが彼等へ怒鳴りつけた言葉。
 自分を応援する者を罵る言葉をカーテンの向こうにいる憧れの人は聞いていたはずなのに、そこから現れて庇うことはなく……。
 うなだれて聞いた屈辱の言葉。それをこんな遠いイギリスで、英語で身近に聞かされて。

「ふ……ざけんな……」

 握り締めた手のひらに血が出そうなほど爪を喰い込ませて、デブオタは呻いた。

「日陰にいる奴は一生、踏みつけられていろっていうのか、搾り取られて死ねっていうのか……」

 そして、まるでそれを肯定するような言葉が彼の耳に入ってきた。

「だから私の視界に入ってきちゃいけないの、陽光の差す場所なんかに出て来ちゃいけないの。さっさと日陰で枯れて腐って、せいぜい私のような存在の肥やしになってちょうだい」

 その瞬間、煮えたぎったデブオタの怒りはついに頂点に達した。

 ――もう我慢ならん!

 憤怒に燃える彼の中で心のゴングが打ち鳴らされた。

「その喧嘩、オレ様が買った!」

**  **  **  **  **  **

 年に一度開催されるイギリス最大のスター・オーディション「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」の開催日。
 その日、イギリス中から畏敬と賛辞を受けてデビューする歌姫にふさわしいのは私しかいない。
 ……そのはず、だったのに。

 プロの歌手を目指す一六歳の少女リアンゼル・コールフィールドの、「イギリス最大の歌手オーディションで優勝を惜しくも逃した」というのは、実はほとんど脚色だった。
 プロダクションの期待を一身に担って出場したはずの彼女は、本当は最初の選考ステージで落選していたのだった。
 ステージを降り、付き添いのマネージャーに会わせる顔もなく会場から飛び出した彼女は、やり場のない怒りをぶつける為にこの公園に辿り着いたのだった。
 そこに、知り合いの少女がよく憩っていることをリアンゼルは知っていた。
 知り合い、といっても友達ではない。日英のハーフであることを理由に学校でリアンたちがいじめの標的にしていたスケープゴートだった。
 今では学校に顔を出さなくなった彼女は公園でひとりで草花を眺めたり、人目から隠れるようにして歌を歌っていた。
 そしてリアンゼルは、時折公園に訪れてはそんな彼女にストレス解消の悪罵を浴びせる。そのたびに彼女は何も言い返さず泣きべそをかくだけだった。
 スターへの第一歩になるはずだったオーディションのその日、惨めな結末に憤るリアンゼルにとって、彼女はやり場のない怒りをぶつける格好の対象だった。
 しかし……
 怒りの赴くまま罵詈雑言の限りを浴びせていたリアンゼルにとって、いじけて泣く彼女の代わりに突如喧嘩を買って出る相手が飛び出してきたのは、まさに青天の霹靂だった。

「おいそこのお前、勝手に息をしてんじゃねえ。誰の許可を得て地球の酸素を浪費してるんだ? 人様に消えろという前にお前が消えろ。人をゴミ呼ばわりするお前自身が消え失せろ。口を開くな、呼吸をするな」

 ジャパニーズイングリッシュで咆えながらレンガ造りのトイレから現れたのは、ボサボサ髪の頭にバンダナを巻き、背中にはリュックサック、肥え太った体にアニメのTシャツをまとった日本人の大男だった。
 彼の容姿はリアンゼルに見覚えがあった。海外のサブカルチャーを特集したテレビ番組で、アニメやゲームのメッカ、日本の秋葉原で多数徘徊している気持ちの悪い「オタク」という人種。
 彼女が間近で目にするのは、これが初めてだった。

「ホワット、誰あんた? 汚いなりしてどこの不審者よ」

 サファイアのような青い瞳を丸くしたリアンゼルは、こんな気味の悪い変質者など相手にもしたくないとばかりに顔をしかめて「しっしっ」と手を振った。
 ところが、その男から叩きつけられる日本流の罵倒は、リアンゼルの悪罵を凌駕するほど辛辣で容赦なかった。

「おい、口を開くなって言ってるのが聞こえなかったのか? 人には偉そうなことをホザいておいて人の話す言葉は理解出来ないほど知能が低いのか? それとも人を虐めるその根性と同じくらい耳も腐ってて言葉も聞こえないのか? フヒヒッ、こりゃ呆れたイギリス人だな」

 リアンゼル・コールフィールドは、輝くような美しい金髪に目鼻立ちの整った顔立ちの美少女だった。すらりとしたスタイルは歌手だけではなくモデルとしても通用すると彼女自身が一番自惚れていた。
 その容姿と歌声に対してお世辞を含めた賛美を今まで数限りなく受けてきたが、これほどあからさまに侮蔑されたことは今まで一度とてない。
 当然、彼女は激怒した。

「何よ、アンタ。頭おかしいの?」
「おかしいのは手前だろ。人に歌うなとかホザいておいてオーディションに落ちた自分のザマは棚に上げる。オレ様が勝手に口を開くなと言ってるのに聞いてねえ。人に誰かと尋ねておいて自分の名前を名乗る常識も知らねえ。おいおいイギリスは礼節の国って本当なのかよ。それとも手前だけが例外か? こりゃオーディションにも落ちて当然だなフヒヒッ、消えろ消えろ、とっとと失せろ」

 オーディションに落ちて当然だな……心の傷にナイフを突き立てるような嘲りの言葉にリアンゼルの顔は見る見るうちに真っ赤になった。

「アンタみたいな奴に名乗る名前なんかないわ! 消えなさいよ、デブデブ、百貫デブ! イギリスが沈むから迷惑よ! 日本人の癖に偉そうに英語なんか話すんじゃないわよ! さっさとハラキリでもして死んじゃえ!」
「おー、オレ様の主張にまともに反論出来ないから的外れな悪口で来たよ! 同じ女の子を虐めて偉そうにしてたのに。オーディションに落ちた惨めな立場で八つ当たりしてたのがそんなに悔しかったのかい? フヒヒッ情けないねぇ」
「アンタに言われる筋合いなんかない! さっさとイギリスから出てゆきなさい!」

 とうとう大声で喚きだしたリアンゼルに対し、母音を引き伸ばすデブオタのジャパニーズイングリッシュは、如何にも呆れ果てたと言わんばかりのイントネーションで嘲り返す。
 まるで戦争でも始まったような罵倒の応酬に、近くを通りかかる人々の足が止まり、デブオタとリアンゼルと虐められていた少女の三人を取り囲むように見物人の輪が出来上がっていった。

「恥ずかしいってアンタの格好からおかしいじゃない! そんな格好でイギリスになんて来ないで! さっさと消えなさい、ゴミ風情が!」
「おお、こりゃますますおかしいや。オレ様の格好が手前がこの娘を虐めていたことと今何の関係がある? オレ様の格好より手前の頭の中の方がおかしくねえか? ああそうか、頭がおかしいなら気が付くはずないよな、それでオーディションに落ちたのか。うわあみっともねえ。フヒヒッ哀れ哀れ、顔は綺麗なのに頭の中がこうも腐ってちゃなあ」

 周囲からの人々からヒソヒソ声が聞こえてくる。中にはデジカメで撮影を始める輩まで現れ始めた。
 好奇と軽蔑の視線に晒されても日本人のデブオタは平然としていたが、リアンゼルはもう耐えられなかった。
「どいて!」と見物人の輪を押しのけるようにして抜け出すと、憎悪の眼差しをデブオタへ向けて「ゴミ風情が! 絶対許さないから、覚えてらっしゃい!」と言い捨てて逃げ出した。

「おーっと、イギリス人のいじめっ子少女、羞恥心に耐えかねて試合放棄だー!」

 まるで、格闘試合を実況中継するアナウンサーのようにデブオタが叫ぶと、観衆の何人かが思わず吹き出した。

「お帰りはどちらかな? ティペラリーへの道は遠いぞ!」

 笑い始めた人々を見てニヤリとしたデブオタは調子に乗って「遥かなるティペラリー」を大声で歌いだした。ロンドンへやってきたアイルランド人の御のぼりさんが悔し紛れにピカデリーがなんだと負け惜しみを叫んだ歌である。
 慎ましくクスクス笑いしていたイギリス人達は、とうとう大きな口を開けて笑い出してしまった。

「覚えてなさい! 絶対にこのままじゃすまさないから!」

 高歌放吟するデブオタと観衆の爆笑を背後に、半泣きのリアンゼルは逃げ去っていった。

「ふん、弱い者イジメしか出来ねえ高慢ちきが。インターネットの中傷合戦で鍛えた日本のオタクをナメてんじゃねえぞ」

 罵倒合戦に圧勝し自慢気にフフンと鼻息を吹いたデブオタは、思わず拍手する周囲に「みなさん、どうもつまらぬ物をお見せしました」と一礼すると「さて……」と、振り返った。
 振り返った先にはポカンとなって立ち竦んでいる件の少女がいる。
 ちょっと小太りの小さな体つきにショートカットの黒い髪とトルコ石のような青緑の大きな瞳。確かに日本とイギリス両方の血を受けたハーフだと頷ける顔立ちは、かわいいと言えなくもなかったが、幾度となく苛められ怯えた表情がすべてを台無しにしていた。
 顔を合わせただけで彼女は次は自分が標的になると思ったらしく、身体を震わせて思わず後ずさった。

「なぁ」

 声をかけただけで彼女はビクッとなって泣き始めたので、デブオタは驚いてしまった。

「お、おいおい泣かないでくれよ。オレ様はアンタの代わりにアイツの喧嘩を買っただけだって。別にアンタに怒ってなんかないからさ」

 デブオタは困ったように話しかけたが、さっきまでずっと泣いていたせいか少女の涙はなかなか止まらない。

「参ったな、これじゃまるで迷子の子猫と犬のお巡りさんだ……」

 彼は途方に暮れたが放っておく訳にもいかず「オレ様の顔を見ろ、いや見てくれ」と言いながら背をかがめて両手の人差し指で口の両端を吊り上げて笑顔を作った。
 少女は、最初はシクシク泣いてばかりで見ようともしなかった。
 しかし、「ほら、ほら」と、おかしな仕草で子供でもあやすように懸命に笑いかけるデブオタにようやく視線を向け、泣き止んだ。

「ほーら怖くない怖くない。オレ様はキモいけど別に悪い奴じゃないよー」

 少女の涙が止まったのを見て、デブオタは宣誓するように右手を上げた。

「もしかして日本語の方がわかりやすいか? 大丈夫。オレ様はアンタに怒らない。ドゥーユーアンダースタン?」

 英語から日本語に切り替え……というより日本語と英語のチャンポンでデブオタは尋ねかけた。

「イエス。ありがとう……」

 少女はデブオタの顔を見上げ、ホッと息をついたデブオタと初めて目を合わせた。
 脂ぎった大きな顔。お世辞にもハンサムとは云えなかったが、四角い眼鏡の奥の瞳は、意地悪なリアンゼルを辛辣な悪罵で叩きのめしたさっきとは違う、穏やかで優しい色を湛えている。
 少女は感謝の気持ちを伝えようと懸命に笑顔を作ったが、ずっと怯えて強張った顔は引き攣ったような表情にしかならなかった。

「おし。じゃあ、とりあえずここじゃ人目が煩いし、場所を変えて詳しい話を聞かせてもらおうか。乗りかかった船だし相談に乗れるようなら乗ってやらぁ」
「……」

 返事がないので、デブオタは少女の顔を覗き込んでゆっくり繰り返した。

「ここから移動する。お茶を飲む。アンタの話をオレ様にして欲しい。助けてあげられるなら力になる。そう言ったんだけど……オレ様の日本語、わかるかい?」

 うなずいた少女の唇が動いていたので、「ああん?」と、デブオタは耳を近づけた。

「聞こえなかった。もう一度言ってくれ。せーのッ」
「……はい」

 本当に蚊の鳴くような、小さな声だった。

「落ち着いてお茶を飲めるところって、どこか知ってるかな?」
「……」

 答えがないので見ると、少女は慌てて「知ってます」というように頷いた。
 また、デブオタの耳には聞こえないほどの声だったらしい。
 どうやら小さな声でしか喋れないほど気の弱い少女らしい、とようやく悟ったデブオタは「こりゃ話を聞くだけでも手間がかかりそうだな」と首を振ったが、肩をすくめると少女を促して歩き出した。

「お腹に優しい店ならどこでもいいんだけどさ。いやあ、さっきはフィッシュアンドチップスに一服盛られてなぁ。あやうく毒殺されるところだったんだ、参ったぜ」

 半ば独り言のように言いながら、デブオタは大きな足取りで悠然と歩いてゆく。
 少女は、おどおどしながらそんな彼の前でちょこちょこと歩いた。

(何でこんなことになっちゃったんだろう)

 歩きながら彼女は困惑するばかりだった。

 少女の名は架橋エメル。
 彼女は、クラスメートからは目の敵のようにいじめられ、学校にも行けなくなって、もうずっと公園で誰にも見つからないように過ごしていたのだった。
 しかし、誰にも迷惑をかけないように独りで歌っているところもリアンゼルに見つけられ、また苛められて。
 それからは彼女の気が済むまで苛められるしかないと、ずっと諦めていたのだった。
 ところが今日、見ず知らずの男が目の前で大喧嘩を始め、リアンゼルを追い払って力になると言い出したのだ。
 いじけているだけの自分の目の前に、まるで嵐のように現れて。

(何でこんなことに……)

 しかし当惑するだけのこの十六歳の少女には、この時まだ知る由もなかった。

 突然目の前に現れて勝手に喧嘩を始めた日本人のデブオタ。
 彼によって、今までとはまるで違う日々が始まったことを……


次回 第1話「蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男 ②」


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