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デブオタと追慕という名の歌姫 #05



第3話 見えない何かが変わり始めて ①


 季節は、春から夏へと向かっていた。
 イギリスの夏は花天国と呼ばれるほど色とりどりの花々が咲き乱れる。
 しかし、夏を前にしたこの季節でさえ公園の花壇や、街路樹の根元にはブルーベル、クレマチス、ラベンダーといった花々が既に咲いていた。
 夏を待ちきれないと言わんばかりに早くも咲き乱れる花々は見た目にもどれも可憐で微笑ましく、通りがかって気が付いた人々は、みな顔をほころばせていた。
 だが、そんな美しい花にも気づかず、暗い顔のまま道端をトボトボと歩く一人の少女がいる。
 それは、三ヶ月ほど前、デブオタへプロ歌手になってみせると宣誓した少女、リアンゼル・コールフィールドだった。

「どうして……」

 唇から力なくつぶやきが漏れる。
 テレビ番組に出演する歌手のオーディションがある、と聞いたとき、リアンゼルは今度こそ合格してデビューしてみせるつもりだった。
 自信はあった。
 今までも幾度かオーディションに挑んでことごとく落選してしまっていたのは、自分の実力が審査員の好みに合わなかったからに違いない。自分の実力にさえ気づいてもらえれば……そう思っていたのである。
 審査の場で精一杯自分の美声を聴かせたリアンゼルは、その場にいた他の応募者達よりも自分の歌がずっと上手に思えた。
 だから、複数選出される出演者の中に必ず自分も入ると思っていた。
 しかし……

 リアンゼルは首から下げたオーディション応募者用のプレートをのろのろと手に取った。
「どうして……」

 恨むような言葉しか出てこない。
 プレートには「一七」と書かれている。合格者として最後まで呼ばれることのなかった、自分の番号だった。
 これだけの美貌と歌の才能に恵まれているはずなのに、何故自分はプロ歌手として認められないのだろう。
 肩を落としたままの彼女の足はいつのまにか例の公園に向かっていた。
 理由はなかった。
 例の二人に罵声を浴びせたところで、また無視されるだけだろう。それなのに何故そこへ足が向かうのか、彼女は自分でも分からなかった。
 引きずるような足取りは、公園に入るとますます重く、遅くなった。
 あの二人がいつもいる場所へ近づくと、デブオタが張り上げているドラ声が聞こえてきた。

「エメル。眼だ、眼! 視線は常に前だ。オレ様を見ろ。見ながら回れ!」

 オークの木の陰からそっと覗くと、青いジャージのデブオタが自分を指差していて、彼を見ながらエメルが爪先立ちで身体を回転させていた。
 色褪せた赤いジャージがクルリクルリと不器用に回る。

「あいつら、バレエなんてやってんの?」

 リアンゼルは、眼を見張った。
 エメルはデブオタの指導でクラシックバレエを練習していたのだ。
 歌の振り付け。
 ダンスの基本は全てクラシックバレエにあり、そこから学ばなければいけないことをリアンも知っていた。
 だが、歌手にとって歌唱力が一番重要だからダンスなど多少疎かでも構わないとリアンゼルは勝手に決め付け、所属するプロダクションの練習プログラムを途中で止めてしまっていた。
 ぎこちない動きで懸命に正しい姿勢作りと回転を繰り返すエメルは、リアンゼルよりずっと下手くそで、素人に毛が生えた程度のレベルだった。
 しかし、エメルが小さな進歩を毎日積み重ねている様子は、無力だったはずのスケープゴートが少しずつ爪を磨いでいるように思えて、不安を掻き立てさせられた。

「まだまだふらついているぞ。エメル、軸足に体重を乗せるんだ。そうだ、そうそう!」
PCのタブレットを手にしたデブオタは、クラシックバレエの基礎練習の動画とエメルの動きを見比べ、声とゼスチャーで懸命に彼女へ指導している。

「いいぞ! 動きが昨日より良くなってる」

 デブオタが小さな上達を見つけて褒めるたび、エメルは汗だくの顔を輝かせる。
 デブオタがバレエの動画をその巨体で不恰好に再現して正しい動きを解説すると、エメルは真剣な表情でそれを真似した。そうして音楽に合わせてジャンプし、身体を回転させ、背中を反らして足を曲げ、腕を伸ばす。

「よし時間だ、休憩しよう。ダンスの練習はここで一旦終了な」

 一定の練習時間を設定しているらしく、タブレットから小さなアラームが鳴るとデブオタは手を叩き、エメルはその場にへたへたと座り込んだ。

「ハハハ、結構疲れたな」

 例によって豪快に笑いながらデブオタは傍らのクーラーボックスからスポーツドリンクと冷えたタオルをエメルに渡し、首に巻いたタオルで自分の汗を拭いた。
 肥満体の彼は、まるで人間版チョコレートファウンテンのように全身から汗を噴き出している。

「でも、だいぶ形になってきたぞ」
「そ、そうですか?」

 バレエの練習用に敷いたゴムマットをクルクル巻き取って仕舞い込みながら、デブオタはさり気なくエメルをおだてた。

「最初は五分も持たずにへたばるし、ちょっと回転しただけでコケまくってたじゃねえか。それが今じゃ十分近くフル稼働出来ている。ロードワークが昨日から三キロコースにレベルアップ出来たのも体力がついてきた証拠だ」
「途中でバテちゃったけど……」
「ペースが掴めてなかっただけさ。今のエメルなら慣れれば出来る。大丈夫だ」

 今のお前なら出来る……そう言われたエメルはくすぐったそうな顔をタオルで拭いて「エヘヘ」と笑った。
 その様子を見たリアンは顔を曇らせた。

(いじけてばかりのエメルが調子に乗ってる。それでも、この私がエメルごときに追いつかれるなんて絶対あり得ないけど)
(だけど……)

「あ、誰だっけお前」

 不安な気持ちにかられて俯いていたリアンゼルは急に声をかけられ、ぎょっとして顔を上げた。
 いつの間にか見つかってしまったらしい。デブオタが、嘲笑を含んだ顔でこちらを見ている。

「リアンゼルよ。リアンゼル・コールフィールド! 私の名前くらい覚えなさい」
「だが断る。悪口しか言わない奴の名前なんか、覚えたくもねえ」
「物覚えの悪い日本人。死ねばいいのに」

 エメルは、悪態で火花を散らす二人をかわるがわる見ながらオロオロしている。そんな彼女をよそに、デブオタは豚のように鼻を鳴らすとベロベロバーをして見せた。

「で、お暇なイギリス人のナントカ様、こちらへはどういった趣でお越しになられましたかな。もしかして、また誹謗中傷しか出来ない惨めなご自分の姿をお披露目に?」
「……」

 リアンゼルは怒りに肩を震わせたまま、一言も発しなかった。ただ、憎しみのこもった視線で睨みつける。
 しかしそんな眼差しなど歯牙にもかけず、デブオタは顎を上げて見下すように笑うばかりだ。
 エメルがリアンゼルの視線を遮るようにしてデブオタの前に立った。

「デイブ、次のレッスンを始めましょう」
「お、おう」

 ちらっとリアンゼルを振り返ったエメルは、デブオタへ懸命に笑いかけた。

「次は発声の練習だったよね。頑張らなきゃ。まだまだ始めの一歩なんでしょ?」
「……そうだな。エメルの言うとおりだ」

 デブオタは傲岸な表情を解いて、ふっと優しい笑顔をエメルに向けた。

「よし、やるぜ!」
「はい!」

 デブオタは、ラジカセをスピーカー代わりにしてタブレットPCをケーブルで繋ぐと画面を操作して芝生の上に置いた。
 ミュージカル「コーラスライン」の名曲「ワン」が流れ始める。エメルは小さな口を一杯に開き、母音だけで懸命に歌い始めた。
 一コーラスに息継ぎをするタイミングは一度しかない。肺活量を増やし、はっきりとした発声を鍛える為の練習である。デブオタが課したプロ歌手への特訓の一環で、彼女はこれを毎日二〇分休みなく続けていた。
 聴き入ったリアンゼルは、すぐにエメルの成長に気が付いた。

(少しだけど前より上手くなってる。「アニー・ローリー」を歌ったときより音程が正確になった。声量も拡がってハッキリ響いてきた)

 リアンゼルは唇を噛んだ。
 もう何も言わなかった。自分の悪罵にめげることなくエメルは努力し続けている。それがたまらなく不愉快だった。

(このままにしてなるもんですか。このままに……)

 憎しみを込めた一瞥をくれるとリアンは踵を返した。
 デブオタは眼を細め、黙って立ち去るリアンゼルを鋭い眼差しで見送った。

(あいつ……)

 彼は、懸命に歌の練習をしているエメルには何も言わなかった。
 しばらくしてタブレットから小さなアラームが鳴るとエメルは発声練習を止め、疲れ切った顔で振り返った。

「あ……リアン、またいなくなってる」

 デブオタは笑った。

「心配すんな。今日は悪口も言わないですごすご帰っていったよ」
「そう……」

 デブオタは「奴、もしかすると本気になったのかも知れん。ザコからラスボスに進化するかもな」と、予言じみた独り言をつぶやいて肩をすくめた。エメルはキョトンとして彼を見上げている。
 そんな彼女に向かってデブオタは大口を開け、ニカッと笑いかけると「さてさて、そんな訳で」と、胸ポケットから一枚のビラを差し出した。

「ライバルを気にする余裕も出てきたエメル様には、そろそろオーディションに挑戦してもらおうかな」

 ビラに印刷されていたのは小さなラジオ番組のテーマソングを歌う歌手の募集だった。オーディションは三日後で課題曲は自由。持ち込み音源も可能と記載されている。読むうちにエメルの顔は見る見る真っ青になった。
 ビラの向こうにおそるおそる顔を向けると、デブオタが自信たっぷりの顔で鼻息を吹いている。

「ま、まさかこれに私が出るんですか?」
「おうよ! いよいよエメルのオーディションデビューだ。曲は振り付けなしで歌いやすい曲を選んでおいた」
「む……」

 無理です! と言い出す前にデブオタは「大丈夫だ、心配するなって」と、大声で請け負った。

「曲はタブレットのフリーソフトでオレ様が作っておいた。伴奏はオーケストラ演奏だって出来るしバックコーラスはボーカロイドがやってくれる。ドゥフフフフ……これぞ世界に誇るアキバのハイテク音楽文化って奴よ! ジョンブルども、刮目するがいい」

 エメルには理解不可能な独り言をつぶやくと、デブオタは「クックックッ、ボカロPのオレ様の実力が火を吹くときがついに来たようだな!」と咆えた。

「言ってること全然わかんないけど、大丈夫じゃないです……」
「何言ってんだ、あれだけ練習してきたんだぜ。そろそろオーディションデビューしなきゃ」
「そうですか?」
「そうだよ!」

 妙なもので、自信満々のデブオタに言われているうちに、エメルも次第に(私、もしかしたら出来るのかも……)という気持ちになってきた。
 考えてみれば、この三ヶ月余り毎日のようにロードワークで身体を鍛え、大声を出し、歌い、踊り、回ってきたのだ。
 簡単にプロの歌手になれるはずないだろうが「試しにこの娘に歌わせてみるか」って展開だって、もしかしたらあるかも知れない。
 不安も大きかったが、精一杯歌ってみようと心を決めたエメルは「わかりました、やってみます」と、小さなコブシを握り締めた。

「よし、その意気だ!」
「はい!」

 ……そして、元気よく返事したその三日後。

 エメルはロンドン近郊のあるオーディション会場のラジオ局にいた。
 ヒザがガクガク震えている。
 精一杯歌うと決めたはずなのに、歌うどころか立っているだけでやっとという有様だった。
 デブオタと共にそこに来るまでは、まだ大丈夫だった。
 例の公園でデブオタと早朝に待ち合わせ、自転車に二人乗りして会場に来るまでは。
 小さなラジオ局といっても来てみれば想像とは全然違っていた。最近立て替えたばかりらしい五階建ての小奇麗で立派な建物だった。
 緊張した面持ちで見上げていると、玄関でエントリーの受付をしてきたデブオタがエメルに番号の書かれた札を渡した。

「部外者は中に入れないってさ。オレ様はここで待ってる。頑張れよ!」
「は、はい」
「緊張すんな、エメル。リラックス、リラックスな」
「は、はい」
「よし、行ってこい!」

 豪快に背中を叩かれ、その勢いに押されるように中へ入ってみると、そこには自分と同世代の少女達が既に長蛇の列を作っていた。
 全員がライバル、敵同士である。親しく口を利くものは誰もいない。互いに敵意を含んだ視線を向けている。無論、エメルにも。
 エメルは、そんな視線から隠れるようにして列に加わり、縮こまった。
 そうして待つこと二時間。ようやく自分の番号を呼ばれた。
 自分の前に審査を受けた少女と入れ違いにドアを開け、スタジオにおずおずと入る。
 そこに五人の審査員が椅子に腰掛けて待っていた。
 既に沢山の応募者を審査して疲れているのか、みな愛想もなく仏頂面である。エメルは怖くて何も言えなくなりそうだった。
 それでも声を振り絞って「よろしくお願いします」と挨拶をする。
 すると一人がさっさと始めろ、と横柄に顎をしゃくった。
 エメルは歌う前からもう心が折れそうだった。三日前の勇気など、とうにどこかへ吹き飛んでしまっていた。

「名前は?」

 不機嫌そうに聞かれ、エメルは震え声で答えた。

「四十七番のエメルです。エメル・カバシ……」
「歌は?」

 エメルはCDをケースから取り出した。中にはデブオタが作ってくれた伴奏曲が入っている。それを傍にあったコンポのトレイに入れようとした。
 だが、手が震えてそんな簡単なことさえちゃんと出来なかった。エメルは泣きそうになりながらようやくCDをセットし、再生ボタンを押した。
 静かなピアノの序奏が始まる。歌は三日間、みっちり練習を重ねてきていた。

(歌わなきゃ。ちゃんと歌わなきゃ……)

 しかし、肝心の歌のパートに入っても声がまったく出なかった。
 頭の中が真っ白になってしまったのだ。歌詞すら思い浮かばない。
 エメルは震える手でマイクを持ったまま、ただ立っているだけだった。


次回 第3話「見えない何かが変わり始めて ②」


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