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デブオタと追慕という名の歌姫 #02



第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男 ②


「まずは名前を教えてもらえるかな?」
「エメル……です」
「エメ……なんだって? 悪いけど聞こえない。頼むから声のボリュームを上げてくれ。ハイ、もう一度ッ」
「エメルです。架橋エメル……」

 蚊の鳴くような声に首を振ったデブオタはいきなり後ろを向くと「レモンティーとレモネード! 毒薬抜きのフィッシュアンドチップス二人前ッ!」と怒鳴り、向かい側に座っていたエメルと手持ち無沙汰にしていた店員を飛び上がらせた。

「これくらいのボリュームで頼むよ」
「む、無理です……」

 エメルがまた涙目になったので、デブオタは慌てて妥協した。

「わかったわかった、泣くんじゃねえってば。じゃあその半分でいいからもう一度」
「架橋エメルです……!」

 それは、ささやき声をちょっと大きくした程度でしかなかったが、エメルには精一杯だった。

「しょうがねえなあ。じゃあそのボリュームでオレ様のクエスチョンに答えてもらうか。ドゥーユーアンダースタン?」
「はい……」
「年齢は?」
「一六歳です」
「お父さんが日本人なの?」
「いいえ、お母さんが」
「ふうん、じゃあその黒髪はお母さん譲りか」

 デブオタが何気なく「艶があって綺麗だね」とつぶやくとエメルは嬉しそうに自分の黒髪を撫でたが、すぐ悲しそうに顔を伏せてしまった。

「エメルはイギリスで生まれも育ちもイギリスなのかい?」
「日本で生まれました。二年前にイギリスに引っ越してきて、しばらくしてお母さんが病気になって……」
「いま入院してるの?」

 エメルは、また蚊の鳴くような声に戻って「去年亡くなりました」と俯いた。
 泣きそうなのを懸命に堪えている。デブオタは慌てて謝った。

「すまん! 辛いことを聞いちまったな。知らなかったんだけどよ……ごめんな」
「気にしないで下さい」
「いや、親御さんが亡くなって悲しいのは当然だろ。ごめんなごめんな」

 ペコペコと頭を下げるデブオタは、リアンゼルを罵倒していた時とは別人のようだった。
 滑稽だが懸命なその様子からは、母親を亡くした悲しみを心から思いやってくれている誠実さが伝わってくる。傷ついていたエメルの心は、優しくくすぐられた。
 ちょうどそんな時に、怒鳴られた件の店員が仏頂面でテーブルにフィッシュアンドチップスの盛られた皿とティーカップをドンと置いて去っていった。

「なんでえ、愛想のない店員だな。まあ、とりあえずお茶をどうぞ」

 エメルが頷いてレモンティのカップに口をつけると、デブオタは皿のチップスをガツガツ頬張り、ストローからチュゴーと音を立ててレモネードを啜った。

「ところで、さっきエメルを虐めていた歌の女王気取りは一体何者なんだ?」
「リアンですか? 私のクラスメートです。リアンゼル・コールフィールド」
「ふうん、イギリスの学校も日本とあんまり変わんないな。イジメって奴は世界共通の文化なのかねえ」
 デブオタは呆れたように首を傾げ「先生には相談したのかい?」と尋ねるとエメルは小さく首を横に振った。

「先生が言ってもクラスの皆がそんなの知らないって……それっきり」
「へっ、クラス中がゲスの太鼓持ちとご機嫌取りか。腐りきってんな」
「お母さんが、それで無理に学校に行かなくていいって止めてくれて。いっそ日本に帰ろうかって言ってくれたけど、ちょうどそのときに敗血病にかかっていたのが検査で分かって、お母さんそのまま入院して……」
「そうか」

 もしかしたらこの少女はイギリスに来てからこのかた、辛いことばかり続いて今のような泣き虫になってしまったのかも知れない。
 デブオタはしばらくの間、黙ってエメルを見つめた。

「そういやリアンゼル、だったっけ。アイツ、何とかってオーディションに落ちたって言ってたよな」
「『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』のことですか?」
「そうそう、それだ。それってどういうオーディションなんだ?」
「ご存じないですか。ロンドンで年に一回開催されるアマチュア歌手のオーディションです。日本でもそういうのは、あっていませんでした?」
「ああ、年一回どころかしょっちゅうやってるよ。テレビの歌番組は昔ほど人気はないけどね。アイドルなら声優アイドルからご当地アイドル、地下アイドルまでジャンルが多々あって選り取り見取り。多すぎてもう何がなんだか。今や生き残りを賭けた戦国時代だなぁ」
「へえ、そうなんだ……」

 それは多少デブオタのホラも混じっていたが、エメルは眼を丸くした。

「でもイギリスでは『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』は特別です。アルティメットって名前がつくくらい凄く権威のあるオーディションなんです。事前選考が通ったら公開審査に出られるんですが、そこからテレビ番組で中継されるんです。視聴率が高いから出場しただけでちょっとした有名人になります」
「へえ、そりゃ凄えや。アイツはそこで落ちたのか」
「勝ち抜きのステージ形式で、優勝したらデビュー出来て、そのまま一流スターに仲間入り出来るんですけど……」
「あんな腐った奴がもう少しで一流スターになれるところだったっていうのか。日本じゃとてもあり得んな」

 ブタのようにフゴッと鼻を鳴らしたデブオタだったが、自分の横で「出場出来たって凄いなあ……」と感心しているエメルに気が付き、ちょっと呆れてしまった。

「おい、自分をいじめた奴に感心してる場合かよ」
「す、すいません」
「じゃあアイツはプロの歌手を目指していたから……」

 デブオタは「そうか」と、気が付いたように指でこめかみを叩いた。

「だからアイツはわざわざエメルの歌に八つ当たりしに来たのか」
「……」

 デブオタは、困ったように下を向いたエメルに気が付いた。
 リアンゼルの嘲りぶりを思い出して嫌悪に歪んでいた彼の顔が、ふっと優しく解ける。

「エメルは、歌は好きかい?」
「……」

 恥ずかしかったのだろう。また耳に届かなかったが、俯いた彼女の小さな唇は「はい」と答えていた。
 デブオタは特製ギョーザのような大きな耳を近づけて更に尋ねた。

「何で好きなの?」
「歌っている間は……嫌なことも忘れていられるから。それに……」
「それに?」

 促されて答えるエメルの声は小さく震えていた。

「お母さんが一番嬉しそうにしてたの……私が歌っているとき。だから、入院している時もよく歌ってあげていたの。お父さんはお母さんに冷たくて一度もお見舞いに来てくれなかった。ずっと海外の仕事ばかり。だから私がお母さんが寂しくないようにって思って……」
「……」

 俯いたエメルの頬から流れ落ちて手のひらで弾けたのは、紛れもなく涙の粒だった。デブオタは息を呑んで、何も言わなかった。
 しばらくして顔を背けると、かすれたような声で「そうか」とだけつぶやいた。
 遠い異国の地でいじめに遭い、友達はなく、ただ一人の寄る辺だった母親を病床で思いやっていた少女。
 エメルに対する哀れみにデブオタは思わず心を突き動かされたのだった。

「お母さんは、エメルは歌が上手だから、きっと歌があなたを幸せにしてくれるって言ったけど。でも、今は歌うと時々お母さんのことを思い出して……今でもちょっと辛いです」

 エメルは歌が上手だから。
 言葉の端々から彼女の悲しい身の上を想像する力がデブオタにはあった。
 病床にいた彼女の母親は、この少女をどんなに心配し、心を残してこの世を去ったのだろう。
 彼はトイレの中で聴いたグリーンスリーブスを思い出した。どこか切なくて悲しい歌声。

「エメル」
「はい」
「お前さ、歌手になれよ」
「えっ」

 驚いてエメルがデブオタを見ると、彼は大きな口を開けて欠伸している。
 欠伸の涙をTシャツの袖で拭った彼の目許は赤くなっていた。

「あんな奴に虐められて泣いてばっかりじゃ天国のお母さんが悲しむぞ」
「そ、それは……」
「いっそプロのアイドル歌手にでもなってアイツを見返してやれ」
「ええっ!?」

 プロの歌手になろうなんて、今までこれっぽっちも考えたことはなかったエメルは真っ青になった。まるで見えない手で往復ビンタでも喰らったように顔を左右に振る。

「そ、そんな……とても無理です」
「無理ってやってみなきゃわからないだろ? あんなゲス女がもう少しでなれるところだったって威張ってたくらいだぜ」
「リアンはあんなに美人だし、歌も上手だから」

 エメルは下を向いた。

「それに比べたら私なんて……」

 デブオタは思わず声を荒げた。

「あのなぁ、そうやって自分の可能性を自分で否定してどうするんだ。その若さで人生の消化試合に入るつもりか? 賭けてもいいけどアイツ、今日の仕返しに明日また来るぜ」

 そう言っても、エメルは悲しそうに首を横に振るばかり。
 それは自分には何の可能性もない、と諦めきった姿で、デブオタはため息をつくしかなかった。

(どうする。彼女が諦めているならこのままお節介も終わりにするか)

 そう思ってみたが、デブオタはどうしてもそんな気になれなかった。
 目の前の少女が、何だか他人のように思えなかったのである。

 言われるがままの姿は、日本で搾取されるだけのアイドルファンとして罵倒されたあの日の自分と同じだった。
 歌うな、黙って日陰で枯れてろと彼女が云われた嘲罵は、黙って金だけ貢いでいろと浴びせられた自分への罵倒と同じに思えた。

 腕組みをして彼は考え込んだ。彼女が諦めているのにこれ以上余計なお節介を焼いて何になるというのか。
 そもそもお節介を焼いて、彼女に何をしてやれるというのだろう。
 そう思っても、心の中から何かが叫ぶように彼に問いかけてくるのだ。

 ――この娘はお前と同じだ。このままにしていいのか? 
 ――このまま踏みつけにさせていいのか? それで後悔しないのか? 

**  **  **  **  **  **

「あ、こんなところにいた」

 リアンゼルの冷たい声にエメルがビクッと竦んだのは、昨日見つかったトイレから離れた、大きなオークの木の影だった。
 仕返しが怖かったが、エメルの憩える場所はこの公園しかなかった。冷たい父親しかいない家庭、虐められるだけの学校。どこにもエメルの居場所はなかった。
 せめて見つからないようにと場所を変えたのだが、意地悪な眼で探し回るリアンゼルから所詮逃れられるはずがなかった。

「昨日言ったのが聞こえなかった? 不愉快だからさっさとここから消えて。イギリスから出て行って。ゴミ風情が」

 黙ってうつむいたエメルに、昨日の分も併せてたっぷり痛めつけてやろうとリアンゼルが罵倒を始めたとき。

「よう、弱い者いじめしか出来ない歌手のなりそこない。昨日の惨めな敗戦の仕返しにやって来たか。思った通りだな」

 キッとなったリアンゼルが金髪を風に靡かせて振り返ると、そこには顎を上げたデブオタが彼女以上の傲慢な態度で腕組みしていた。

「まだ国外追放されてなかったの? デブで日本人のゴミ風情が……」
「へっ、オーディションに落ちた負け犬にしては威勢がいいな。よく咆えやがる」

 ニヤニヤしながら肩をすくめたデブオタへリアンゼルは肩を怒らせて向き合う。その背後でエメルはオロオロするしかなかった。
 そして、公園の中を行き交う人々がまた三々五々と足を止めて遠巻きに見だした。

「……昨日私に言ったわね。オーディションにも落ちて当然って」
「そんなに悔しかったか? 不服の申し立てならオレ様ではなくオーディション会場にでもどうぞ」

 邪悪な笑みを浮かべたデブオタは胸に手を当て、まるで執事のように丁寧なお辞儀をして見せた。
 リアンゼルはもう言い返さなかった。この男が今日もここに現れ、エメルを庇って噛み付いてくることは予想していたのである。
 そして、そのときどうやって思い知らせてやるか……彼女は既に心積もりをしていた。
 彼女は黙って肩に担いでいたギターケースを降ろすと中からドレッドノートタイプのアコースティックギターを取り出した。
 周囲の人々が見守る中で落ち着いた手つきで弦を掻き鳴らし、音程を耳で確かめ、ペグをいじってチューニングを終える。
 怒らせた肩を下ろし、心を落ち着けるように背筋を伸ばして眼を閉じ、すぅ、と大きく息を吸った。
 ギターが切ないメロディーを奏で始める。それはエメルもデブオタも聴いたことのある有名な曲だった。
 ペインの「Form of the heart」
 ニューヨークの孤独な殺し屋と突然家族を殺され孤児となった少女。その純愛と悲しい結末を描いた映画のラストシーンを飾った名曲である。
 ギターの曲に合わせてリアンゼルは美しい声で歌い始めた。

「The man distributes a card. To find an answer. Along holy sequence named the fate...」
(男はカードを配る。答えを見つけるために。運命という名の神聖な配列に沿って……)

 人生をトランプのゲームに例え、配られたカードで勝負する様子を偶然に翻弄される人の運命のように皮肉った歌。
 しかし、名声や愛を賭けてゲームに挑む者の虚ろな気持ちを表現するものは皮肉ではない、先の見えぬ人の儚さなのだと、彼女の唇は静かに語る。
 それまで意地悪な言葉、毒を孕んだ罵倒しか聞かされていなかったのに、そのリアンゼルが別人のように人の儚さ、偶然という運命の悲しみを歌っている。
 まるで、いじめられて傷ついたエメルの心の悲しみさえも知っているように。
 ギターを爪弾く手つきも巧みで、聴く人の心を掻き立てずにはいられなかった。
 エメルは自分が恥ずかしくなって下を向いた。

(リアン、こんな上手に歌えるんだ)
(こんなに上手だから私に歌うな、なんて言えるんだ)
(それに比べたら、私の歌なんて……)

 だけど、歌も歌えず、ここからも追い出されて、それから自分はどうしたらいいのだろう……
 エメルはそっと手の甲で涙を拭った。

 歌が終わり、続いて演奏が終わると、取り巻いていた人々から拍手が沸き起こった。
 しかし、拍手してくれた人を無視してギターをケースの上に置いたリアンゼルは、斜めにデブオタを見つめた。
 歌うのにふさわしい資格ということはこういうことだ、という無言の圧力。
 戸惑ったように拍手は止み、人々はリアンゼルが睨みつける先に眼を向けた。

「これでも私がオーディションにも落ちて当然だなんて言えるの?」

 あきれたような声でリアンゼルは問いかけた。
 これで、当然だなんてもう言わせない。言外に彼女はそう言っていた。
 だが。
 リアンゼルの冷たく細めた眼の向こうで、デブオタは腕組みしたまま不敵な笑顔を少しも崩していなかった。

「ほう、その程度の歌でオーディションに落ちるはずがないなんて思っていやがったのか」
「な……!」
「人に聞かせる価値のない歌って、こういう歌なんだなぁ」

 自分の歌唱力の前に怖じ気づくだろうと踏んでいたリアンゼルは、ヤレヤレと言うように両手を持ち上げて呆れたデブオタへ、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

「どこが! どこが価値がない歌っていうのよ!」

 デブオタは片目を細めると唇を歪めてフフンと笑った。

「そんなみみっちぃ歌で偉そうに何を言ってんだ、あ? 名曲だから歌っている奴まで一流のように聴いてる奴を騙せたつもりなんだろうが。その程度でプロになれるようじゃイギリスの歌謡界って日本より十年は遅れてるなあ」
「バカにするんじゃないわよ!」
「断る。オレ様はどこまでもお前をバカにしてやる。そしてお前をバカにするのには正当な理由がある」

 足を踏み鳴らして叫んだリアンゼルに真顔で言い返すと、デブオタはエメルを指差した。
 そして、彼女の歌に感心していた周囲の人々の耳に聞こえるようにはっきりした声で、だが静かに言い放った。

「違うって言うなら……昨日手前がエメルに言った言葉をここで言ってみろよ。ここにいる人たちに聞こえるようにもう一度言ってみろ」
「え?」

 思いがけないことを言われ、リアンゼルは狼狽した。

「言えないならオレ様が言ってやろうか。『歌わないで。歌って云うのはふさわしい資格がある人に許された特権なの。私のような人しか歌っちゃ駄目なの。ヒバリやツグミは歌っていいけどガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの』昨日確かにエメルにそう言ったな。違ったか?」
「そ、それは……」

 リアンゼルが返事に窮して何も言い返せないのを見て、さっきまで彼女を感心して見ていた人々は思わず鼻白んだ。
 ツンとすましたリアンゼルを高慢そうぐらいには見ていたが、まさかそこまで酷い罵倒を浴びせているとは思っていなかったのである。

「それからこう罵っていたな。『今すぐ消えろ、ここから出てゆけ、死ね』」
「違……」
「さっきも同じことをエメルに言ってたな」

 顔面を蒼白にしたリアンゼルに向かってデブオタは問い掛けた。

「そんな気持ちで手前は誰のために歌うっていうんだ? そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ? それともイギリスでは人をけなして踏みつける奴こそ歌手になる資格があるのか?」
「……」
「案外そんな腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろうがな」
「あ、アンタにそんな偉そうなことを言う資格でもあるっていうの?」

 真っ青な顔でリアンゼルは必死に言い返した。
 もう、そういう反撥しか出来なかったのだ。周囲の人々から向けられる視線から既に好意や賞賛の色は消えていた。
 それでも、プロの歌手を目指すリアンゼルには自分のプライドに懸けて自分の非を認めることは断じて出来なかった。

「おい、いい加減にしろ。資格の問題じゃねえだろ!」

 どこまでも自分の非を認めようとしないリアンゼルの傲岸さに、冷ややかに見下していたデブオタもとうとう呆れて怒りだした。

「エメルは病気のお母さんを慰めるために歌っていたんだぞ、亡くなるまでな。それをガマガエルだ毛虫呼ばわりして歌うな、消えろだと? 手前こそ何様だ!」
「質問をすり替えないで! ふん、ゴミ風情が同じ日本人のゴミを庇って歌だなんだって偉そうに言わないでちょうだい」

 足を踏み鳴らし、半ば逆ギレしたようにリアンゼルは叫んだ。
 デブオタはそんな彼女に怒鳴り返そうとして、ふとリアンゼルの向こう側に気が付いた。
 そこにはエメルがいた。彼女は胸の前で手を合わせ、涙を溜めた目に胸が張り裂けそうな悲しい表情を浮かべて立ち竦んでいる。
 それを見たとき、昨日からどうしようかと悩んでいたデブオタの心は固まった。

 ――エメルは歌が上手だから

 そう言ってくれた病床の母親を慰める優しい歌でさえ、光の当たらぬ者には許さない。
 勢いに任せて、しかしリアンゼルはハッキリそう言ったのだ。

「資格があるのかと抜かしやがった。自分のことは棚に上げて」

 デブオタはゆっくりと歩き出してすれ違いざまにリアンゼルへ唾を吐きかけると、エメルの傍へそのまま行き、背をかがめて話しかけた。

「なあ、エメル。やっぱりお前歌手になれ」
「えっ?」

 エメルが見上げたデブオタの顔。
 そこにはリアンゼルに向けた蔑みの冷笑ではなく、温かな笑みが浮かんでいた。
 力強い自信に溢れた手がエメルの背中をやさしく叩く。

「お母さんが言ってたんだよな、歌がお前を幸せにしてくれるって」
「う、うん」
「よし、じゃあオレについて来い。約束する」
「約、束?」
「ああ、お前を必ずプロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」

 そう言うとデブオタはゆっくりとリアンゼルへ振り返った。大きく胸を張る。

「オレは日本の音楽プロデューサーだ」
「何ですって?」

 眼を丸くしたリアンゼルに向かって、デブオタはまるで決闘を申し込むように指を突きつけた。

「手前がなれなかったプロの歌手に、オレ様がエメルをしてやる。それが俺達の勝利、そして手前の敗北だ。覚えとけ!」

 それは、まさしくデブオタからの宣戦布告だった。
 思いがけない言葉にリアンゼルは「は、バカじゃないの? 何言ってるのアンタ」を乾いた笑い声をたてた。

「何言ってるのかも聞こえない、こんな小娘が?」
「少なくとも人をいじめて薄汚い自尊心を満足させてる手前より見込みはあるな」
「見込みってどこによ! アンタの節穴みたいな眼でどっかに才能でも見えたの? そんな身なりでプロデューサーなんて笑わせるわね。どうせハッタリでしょ! 何も出来ないくせに! 何の力もないくせに!」
「ほざけ、オーディション落っこちてデビュー出来なかった負け犬風情が! 咆える以外に貴様に何が出来る?」

 小馬鹿にしたはずの罵倒に対し、傷口に塩を塗るような痛烈な皮肉が返ってくる。
 わなわなと震えたリアンゼルは咆えるように叫んだ。
 これ以上の屈辱に耐えられなかったのだ。

「来年よ! こ、今年は運がなくて落ちてしまったけど、来年のブリティッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションには必ず優勝してスターになって見せるわ!」
「へえ、落ちたばかりなのにねえ」

 キッとなって睨んだリアンゼルの瞳には涙が滲んでいる。さすがにデブオタもたじろいだ。

「誓うわ。エリザベス女王陛下の御名に懸けて!」

 捨て身の決意に満ちた彼女の誓約に周囲の人々はどよめき、意味が分からずに訝しげな眼を向けたデブオタへエメルが小さな声で解説した。

「リアンゼルはこう言ったんです。“イギリスの名誉に懸けて自分はプロ歌手になる”と」
「そういうことか」

 腑に落ちた顔をしたデブオタに背を向けるとリアンゼルはギターをケースにしまって歩き出した。
 だがエメルは気が付いていた。
 足早に去ってゆくリアンゼルの肩が小さく震えていたことに。

「リアン……」

 小さく呼びかけた声は無論彼女の耳に届くことはなかった。仮に届いても彼女は足を止めることも、振り返ることもしなかっただろう。

 ――そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ? 
 ――腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろ

「そんなことあるもんですか。優勝してスターになるんだ。今度こそ……今度こそ……」
 リアンゼルはデブオタとエメルに後姿しか見せないように背中を向け、凛とした姿勢で歩きながら泣いていた。
 拭っても拭っても、煮え湯のような悔し涙が溢れてくる。
 それまでエメルをいじめて浅ましい優越感を満足させていたリアンゼルは、デブオタの反撃に初めて自分の心の醜さを人前に晒され、痛めつけられたのである。

「絶対許さない! 必ずプロ歌手になってあのデブオタとエメルを叩き潰してやる」

 彼女は泣きながら、何度も自分に誓った。
 いじけて泣いてばかりのエメルに自分が負けるなどと露ほどにも思えなかったが、それでも断じて負けるわけにはゆかない。
 スターを目指す彼女のプライドに賭けて。

「負けるもんか、絶対に負けるもんか!」

**  **  **  **  **  **

「凄いことになっちゃった……」

 日が暮れようとしていた。
 すでに、集まった野次馬達も三々五々と散っていたが、閑散となった公園にエメルはいまだ立ち尽くし、ぼう然としていた。
 昨日は売り言葉に買い言葉が飛び交う激しい罵倒の応酬だったが、今日はとうとう引き返せない戦いが始まってしまった。
 当事者の一方なのに、エメルはずっとオロオロするばかりで何も出来ず、何も言えないままだった。
 それなのに、自分を支えてくれた母親の言葉が切っ掛けで彼女はプロの歌手を目指すことになってしまったのである。
 考えただけでも眼がくらみそうな、途方もない目標だった。

(どうしよう……どうしよう……)

 押しつぶされそうな不安にただただ震えていると、彼女をスターにすると宣言した張本人が横で大きく伸びをした。

「それにしてもイギリス人っていうのは言うことが大袈裟だな。ああいえば自分がスターになれるとでも思ってんのかな? なあ、エメル」
「え? いや、そのどうなんでしょう……」

 こともなげに話しかけるデブオタを見て、エメルは混乱した。
 途方もないことを言ったのに、言った本人はそれが大した問題でもないようにノンキに欠伸なんかしているのである。
 まるで、自分にはエメルをプロ歌手のスターにする算段がちゃんと出来ている、とでもいうように。
 エメルには到底信じられなかった。

 あれほどの美貌に恵まれ、あれほど歌の上手なリアンゼルでさえ落選してしまったというのに、何のとりえもないこんな自分がどうしてスターになれるだろう。

「何だ、心配なのか? あんな大袈裟に宣誓されたことが」

 思わず下を向いたエメルを見たデブオタは問い掛けた。

「怖いかい?」
「……はい」
「じゃあ、エメルも誓うといい」
「え?」

 エメルがデブオタを見ると、彼は彼女を見返して確かめるように話しかけた。

「お前を一番愛してくれた人がいたよな。……お前のお母さんだ」

 エメルが黙ってうなずくと、デブオタは彼女のターコイズグリーンの瞳をまっすぐ見つめた。

「じゃあエメル、お前は天国のお母さんに誓え。歌手になって幸せになってみせるって」
「……」
「大丈夫だ、心配すんな。オレ様がついてる。お前を絶対プロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」

 ――天国のお母さんが喜んでくれるような……

 エメルの脳裏に、自分の歌を聴かせていた母親の姿が浮かんだ。
 最後はかけている布団も平らになるほどすっかり痩せてしまって、話す元気もなくなって、それでも黙って自分の歌を聴いてくれた姿。
 やつれた顔に、幸せそうな笑みを浮かべて……
 しばらく間があった。
 デブオタがじっと待っていると「……はい」と確かないらえがあって、すすり泣く声が聞こえてきた。

「……お母さん……お母さん」
「泣くなッ! 涙はスターになるその日の為にとっておけ!」
「……はい」

 気丈に返事したエメルの頭をデブオタはそっと撫でた。

「大丈夫だ。オレ様に任せておけ! 大船に乗った気でいろ」
「……はい」

 引いた手の先には必ず光が、幸せが待っていると……まるで自信の固まりのような力強い言葉。
 エメルの頭に乗せたその手は、実はちょっとだけ震えていた。
 しかし、涙をこらえていたエメルは気が付かなかった。

(これから何をしたらいいんだろう。どうなるんだろう。何も分からないけど。だけど……)
(ついていこう。この人に)

 暮れてゆこうとしていた陽光が一瞬、雲の隙間から残照となってエメルを優しく包み込んだ。
 その時、エメルの中で何かが芽吹いたような気がした。
 小さな小さな、夢に向かって生きようとする心の芽が……


次回 第2話「デブとヘタレの二人三脚 ①」


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