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デブオタと追慕という名の歌姫 #22



第7話 衝撃と栄光と別離 ⑥


「皆さま、第四八回ブリティッシュ・アルティメット・シンガー・オーディションは、遂に最終ステージを迎えました」

 会場には「御静聴をお願いします」というアナウンスが再び流れたが、ここに至って観客はざわめきを抑えられることが出来なかった。
 司会者の声も、興奮の色を隠し切れない。
 昨年も、一昨年もこの最終ステージに立った歌姫はいなかった。
 一昨年は残念そうな観客に向かって彼は「皆さん、次回こそ栄冠を手にする素晴らしい歌姫が現われますよ。また来年、ここでお会いしましょう」と慰め顔で締めくくった。
 だが、昨年も結局同じ結果を同じ慰めで繰り返すしかなかったのだ。
 白けた観客の顔を見て、彼自身、どんなに忸怩たる思いをしたことか。
 それが、今年は……

「一昨年も去年も誰も立てなかった最終ステージに、二人が残って競うことになりました。それも優劣つけがたい、素晴らしい歌姫が」

 彼が嬉しそうに手を差し伸べて歌姫達を招くと、それだけで歓声が沸いた。

「最終ステージに残った二人をご紹介いたします。ギターを弾く金色の歌姫、リアンゼル・コールフィールド!」

 マネージャーに手を引かれてステージに進み出たリアンゼルは、金髪をさっと一振りすると右手を左胸にあてて優雅に一礼し、拍手を受けた。

「対するは漆黒の可憐な舞姫です。エメル・カバシ!」

 まるで魂でも抜かれたような表情のデブオタを引き摺るようにして現れたエメルは両手を広げ、風でも起こすようにクルリと舞うとそのまま一礼して喝采を浴びた。
 エメルとリアンゼルの視線が一瞬交錯する。
 かつてのいじめっ子といじめられっ子。二人の歌姫の間に激しい火花が散り、互いに顔を背けた。
 一方、ヴィヴィアンはデブオタへ「どうぞお手柔らかに」と云うように笑いかけたが、そのデブオタはまだ放心状態で気が付かない。
 鉄の心臓を持った男が一体どうしたのだろう、と彼女は怪訝そうな顔をしたが、エメルが「もう一回したら元に戻るかなぁ」とデブオタに近づき、彼が「エメル……ちょっ……おまっ……」と慌てふためいて飛び上がったのを見て「なるほどね」と、笑い出した。

「では、最終ステージの審査に御呼びした先生方をご紹介します」

 クスクス笑うヴィヴィアンの向こうで、司会者にスタッフから審査員リストが手渡された。審査の公平を期する為に、最終審査員が誰なのか司会者にもこの時点まで伏せられていたのだ。
 ステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターの画面に「Judges of the final review(最終審査員)」という文字が表示され、審査員の数だけ画面が分割される。
 司会者は渡されたリストを読み上げ始めた。

「外国の著名な音楽プロデューサー、音楽事業家の方々です。ご紹介します、アメリカからランディック・ジャックソン、ドイツからアンナリーザ・ラウン、オーストラリアからカイリーラ・ミーグ……」

 分割した画面に審査員が現われて紹介されるたび、拍手が起きる。
 審査員に興味のないリアンゼルはその場でギターの調弦を始めた。手慣れた手つきでペグを弄りながら「ねえ、ヴィヴィ。最後に歌うこの曲って何だか……」と戸惑ったようにマネージャーへ話しかけている。
 デブオタと云えばようやく再起動したらしく「いけねえ、しっかりしろ。仕掛けの準備を……」とかブツブツ言いながらリュックサックの中をゴソゴソ引っ掻き回していた。

 そして……異変が起きたのは司会者が読み上げている言葉の途中からだった。

「フランスからはラファール・アルシエ。そして日本からはハルモト・ヤス……キ……?」

 驚愕と困惑に、声が途切れた。
 ハルモトヤスキ。
 それはエメルと共に今、ステージの上にいるプロデューサーのはずだった。現に司会者は二つ前の選考の折に彼へインタビューしていたのだ。
 だが、公平な立場であるべき審査員が、同時にオーディションに出場する歌姫のプロデューサーでもある、ということは絶対にありえない。

 では、ステージの上にいる男は一体何者なのか?

 司会者や観客達、テレビカメラの視線が一斉にデブオタを向いた
 驚愕と疑惑の視線を一身に浴びたデブオタは恐怖に立ち竦んでいる。傍らのエメルが心配して何度も呼びかけるが狼狽の余り耳にも入らない。
 そして、巨大なスクリーンモニターでは他の分割画面をサムネイル化して端に押しやり、一人の日本人が現われた。

「I am one of the jury to participate in the British Ultimate Singer auditions from Japan . My name is Yasuki - Harumoto.(日本からブリテッシュ・アルティメット・シンガーの最終審査の栄誉を担いました、ヤスキ・ハルモトと申します)」

 画面の中から流暢な英語で名乗ったのは、高級そうなビジネススーツを着た五〇代の日本人だった。
 やや太り気味で黒ブチの眼鏡を掛けた男。外見はさほど目立たないが、その眼光は氷のように冷ややかで強烈な存在感を放っていた。
 見るからに鋭利な頭脳を持ったプロデューサーだが、あまりにも酷薄そうな印象に、人々は息を呑んだ。
 そして、彼は人々が抱いたそんな印象通りの男だった。
 彼は「もう一人のハルモトヤスキ」を冷然と見下ろして呼びかけた。

「ところで君は誰なんだ? ハルモトヤスキ君」
「……」
「誰かと聞いている。口が利けないのか?」
「……」
「では質問を変えよう。僕の名前を騙って、君はここで何をしているんだ?」
「……」
「何をしているのかと聞いている。口が利けないのか?」
「……」
「答えろ!」

 激しい声に、傍観者達でさえ思わず震え上がった。
 あれほど盛り上がっていた会場の雰囲気は、男の声によって一変した。まるで裁判の場のような厳しい空気へと。
 デブオタは……何も答えられなかった。

「おおかた君はイギリスだから僕の眼が届かないとタカをくくっていたんだろう。だから僕に成りすまし、アイドル育成の真似事でひと儲けを企んだ」
「……」
「そして調子に乗り、こともあろうかこのオーディションにまでしゃしゃり出てきた訳だ。君のことはそこにいるリアンゼル・コールフィールドが教えてくれたよ。僕の名前を騙り、英国でもっとも権威あるオーディションへ歌姫を出場させようとしている不届きな男がいますとね」

 本物の春本ヤスキが口にした密告者の名前に、人々はどよめいた。

「ち、違うの……私、そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃ……」

 驚愕の視線を浴びたリアンゼルは、顔を蒼白にして首を振った。
 確かにあの日、心に浮かんだ誘惑のまま自分は彼を売ろうとした。
 それでも危ういところで踏みとどまった……彼女自身はそんなつもりでいたのである。
 だが、現実はそうではなかったのだ。
 優勝したいが為にライバルを売った卑劣な歌姫……そんな侮蔑の視線に怯えたリアンゼルをヴィヴィアンが必死に庇う。二人は声もなく抱き合った。
 一方で、春本ヤスキはデブオタへ追及の手を緩めようとはしない。

「君は何の資格があってこのオーディションに参加出来たのか?」
「……」
「君は歌手を育成する資格があるのか? あるならここで証明してくれたまえ」
「……」

 言葉の礫とはこのような糾弾を指すのだろう。デブオタは何一つ答えることが出来ず、ただ身体を震わせているばかり。

「なるほど。何も答えられない、そういうことしたと君はいま自ら証明した訳だ」
「……」
「そこがどれほど高貴な舞台か君は理解しているのか? 光の当たる場所、人々の尊敬と賛辞を受ける場所だ。そんな場所に何の資格もないニセモノが立つとはどういう了見だ? 身の程をわきまえろ!」

 容赦ない罵倒を浴び、日本にいた頃と同じようにデブオタは声もなくうなだれた。

「やめて。お願い、もうやめて……」

 エメルはデブオタの身体にしがみ付き、懸命にモニターの男へ呼びかける。
 自分の小さな身体で出来るなら、非難の言葉も疑惑の視線も彼に代わって受けてあげたかった。

(あなたはクズなの、ゴミなの。日向には出てきちゃいけないの……)

 一年前、ただいじけて悪罵に耐えていたエメルだからこそ、他の誰よりも知っていたのだ。今、デブオタが身を切られるように辛い思いに黙って耐えているのを。
 だが、ヒエラルキーの頂点に立つ男はかつてのいじめっ子より容赦なかった。
 画面の中から指をさし、鞭を振るうように宣告する。

「聞こえないのか? ここは君のような奴が立っていい場所じゃない。ゴミ風情が、とっとと失せろ!」

 目顔で促され、四人の警備員達が近づいた。顔面蒼白になっているデブオタの腕を掴み、しがみ付いたエメルを引き剥がす。

「ま、待ってくれ! せめて最後のステージに立ち会わせてくれ……」

 デブオタは懇願したが、画面の中の春元ヤスキは「つまみ出せ」とばかりに厳然と顎をしゃくった。
 懸命に抗ったが、退職軍人らしい屈強な警備員達が相手ではデブオタが敵うはずもない。荒っぽく身体のあちこちを掴まれ、引き摺るように連れ去られてゆく。

「待って、お願い! デイブを連れていかないで!」

 エメルは必死に取りすがったが、警備員の一人に抱き止められてしまった。

「お願い、デイブを返して!」

 だが、エメルの声に警備員は顔色ひとつ変えない。二人は、冷徹なヒエラルキーの前に無残に引き離されてゆく。

「……」

 デブオタはとうとう諦めたように、もがき暴れるのをやめた。
 心の準備さえ与えられなかったが、どこかで予感していた別離の時が来たのだと……それが突然だったのだと理解するしかなかったのだ。

「あああああああああああー!」

 よろめいて膝をついたエメルは手で顔を覆って泣いた。人目も憚らず、声を放って泣いた。
 デブオタはもうステージから連れ出されようとしている。
 騒然となっていた会場も、一瞬シンとなった。

「こんななりゆきになりましたが……皆様、よろしいでしょうか」

 とてもそんな雰囲気ではないことは重々知っていたが、司会者は役柄上、この場をいつまでもそのままにしておくことも出来なかった。
 気まずそうな声でオーディションの再開を告げる。
 もちろん、白けきった会場から拍手など起きるはずもない。エメルやデブオタに同情する声やリアンゼルを非難するブーイングが幾つも上がった。

「ミス・エメル。あなたのステージですが……歌えますか?」

 おそるおそると云った様子で司会者が尋ねかけた。
 手折られた花のようにうずくまったエメルは、力なくかぶりを振る。
 さっきまで万を超す観客に向かって堂々と歌っていたのに、歌えるかと問われ身体が震えだした。まるで、かかっていた魔法が解けてしまったように。
 デブオタが傍にいない。
 彼がいてくれたからこそ、今までどんなことだって出来たのだ。彼を奪い取られて、今までのようにどうして歌えよう。
 まるで一年前に戻ったように彼女はうなだれ、泣いている。
 司会者は小さなため息をつき、振り返ってエメルの棄権を告げようとした。
 そのときだった。

 従容として連れ出されかけていたデブオタが、突如として警備員の腕を振りほどいてステージへ走り出した。
 そして、あらん限りの声で叫んだ。

「オレはニセモノでもお前は本物だ! 頑張れ、エメル! 歌うんだ!」

 ハッとなって顔を上げたエメルへ、デブオタは声をしぼり出した。
 歌姫を目指して公園で練習を始めた日、彼が彼女に託した願い。

「オレみたいな惨めな奴を歌で抱きしめる、優しい歌姫になってくれ……!」

 追いついた警備員がラグビーのタックルでもかけるように彼に組み付いた。そのままどうと倒れたデブオタに別の警備員が覆いかぶさる。他の警備員も駆け寄り、しばらくの間大捕物のような騒ぎになったが、それも短い間のことだった。
 しばらくすると、警備員は四人がかりで寄ってたかって暴れるデブオタの手足を持ち上げ、そのまま神輿でも担ぐようにして連れ去っていった。

「デイブ……」

 エメルは、涙でもうデブオタの姿が見えなかった。
 それでも「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」と叫ぶ声が遠くから聞こえてきた。
 そして、それがエメルが聞いたデブオタの最後の言葉になった。

(デイブ、デイブ……最後まで私のために……)

 ふらふらと立ち上がったエメルの視界の端に、蒼白になって佇むリアンゼルの姿が見えた。まともにエメルと顔を合わせることが出来ず、震えている。
 デブオタの渾身の叫びを聞いた春本ヤスキが、モニターの中で唇の端を歪めて嘲笑った。

「ふん、ニセモノが……」

 そしてその言葉を聞いた瞬間。
 それまで悲しみでいっぱいだったエメルの内に、突然激しいものが迸った。
 言葉で形容しがたい何か、怒りにも似た何かが込み上げる。

 ――ニセモノなものか! 自分を歌姫にしてくれたあの人が!

 エメルは涙をぬぐい、背筋を伸ばした。息を整え、周囲を見渡す。
 引き攣った顔のリアンゼル、気の毒そうにしている司会者、息を呑んで見守っている会場の観客達、向けられたテレビカメラが眼に飛び込んできた。
 ……カメラの向こうにも、多くの人々がいるはずだった。
 彼等は、デブオタが侮辱されたその一部始終を見ている。
 このまま、あの男の言葉を聞いただけで終わってしまったら、世界中の人々はデブオタがニセモノのプロデューサーだと思ってしまうだろう。
 歩き出したエメルは、怯えて思わず身を引いたリアンゼルの肩からすれ違いざまファーストールを剥ぎ取った。
 リアンゼルは小さな悲鳴を上げて尻餅をついたが、エメルは振り向きもしない。
 歩きながらストールで涙の残りを拭き、思い切り鼻をかんでそのまま投げ捨てた。
 立ち止まる。
 顔を上げる。
 そして、巨大なモニターの向こう側で傲然としている男を睨みつけた。

 ――デイブを蔑んだ貴方に見せてやる。あの人がニセモノなんかじゃないってことを!

 その眼の凄まじさ。
 ヒエラルキーの頂点に立つ男は、稲妻にも似た歌姫の激しい視線を受け、思わずたじろいだ。
 エメルの小さな身体いっぱいに力が漲る。
 燃えたぎるような熱い使命感が、いま彼女をかつてないほど奮い立たせていた。
 一年前、蚊の鳴くような声で歌っていた泣き虫のいじめられっ子がどんなに変わったのか、今、見せてやる……この一年間彼と共に培った自分の力、その全てを!
 ステージの中央から観客席の端まで歩み寄ったエメルは、胸についたワイヤレスマイクに目をやると大きな声で観客席へ呼びかけた。

「I prove that the man who was in this place until a while ago is a first-class producer. Please listen to all of venue, my song!(ここにいた彼が本物のプロデューサーであることを私が証明するわ。みんな、聴いてちょうだい!)」

 憤懣やる方ない気持ちで燻っていた会場は、エメルの呼びかけを聞いて一瞬で沸騰したように凄まじい歓声を上げた。
 彼等は、歌姫を栄光のステージに立たせてくれた男が罵倒され追い出された様子を目の当たりにしていた。
 そして、健気にも立ち上がった歌姫は彼の屈辱を自らの歌唱で晴らすと云うのだ。
 空気を震わせるほどの大歓声と嵐のような拍手が彼女を讃える中、エメルはアカペラで歌い始めた。

「If you find your wish in the world that you have not yet looked at. Find your hidden key without giving it up...」

 デブオタが自分の全財産を差し出してイギリスきっての作曲家ピクシー・スコットに依頼した、ブリテッシュ・アルティメット・シンガーのラスト・ソング。
 オリー・ザガリテ「シュアリー・サクセスド・トゥモロー」。
 全身を声帯にする思いで歌姫は歌う。
 演奏を担当するスタッフが気を利かせ、歌声に伴奏がフェイドインして入って来た。
 エメルは目を伏せて俯くようにポーズを取ると一転、軽やかにステップを踏んで踊り始める。
 その鮮やかな身のこなしに、審査員達から思わず嘆声が漏れた。

「If you feel hidden one's power. Your heart surely flares up hot. The talent that God gave somebody is false. The truth that you felt is true power」
(もし隠された己の力を感じたら、心は熱く燃え上がりはじめる。誰かに与えられた才能なんてただの偽り。あなたが今感じた真実こそが本当の力なのよ)
「When you were tired, remember a promise with me, no don’t ever stop.」
(辛いときは思い出して、己の信じる道をひたすらに進むと誓ったあの日を)

 奇しくもと云うべきだろうか。その歌詞はそのまま今のエメルを謳っていた。
 そう、ピクシーが彼女に相応しい歌に思い当たりがある、といっていたのは、まさしくこの曲目だったのだ。
 彼女は意識して歌詞に自分の気持ちを重ね、美しい歌声を響かせる。

「You do not move only by words. The power of the heart moves you. The guidance named the passion」
(薄っぺらい言葉なんかじゃ動けない。情熱という心の力に導かれ、あなたは走り出した)
「Surely you who could do it believed so it and should have begun it. Follow what's in your heart. And reach for the highest star」
(きっと出来る、あなたはそう信じて始めたはずよ。だから諦めないで。夢を追い続けて。あの輝く星に手が届く時が必ずくるわ)

 どんな激しいステップでも軽々と踏めた。
 空だって飛べそうなほど高く跳躍出来た。
 のけぞった背中は竹のようにしなり、透き通るような歌声は聴く人の心を心地よく震わせる。人々は彼女の背中に翼がついているのか、と思わず見入った。
 連れ去られたあの男が彼女に授けた、見えない翼が……

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)

 その華奢な身体のどこからと思えるほどの歌声に会場のボルテージは凄まじく高まっていった。
 観客席の人々は、雄叫びにも近い歓声を上げて熱狂し、この小さな歌姫を讃える。
 巨大スクリーンの中からその光景を春本ヤスキは苦々しげに見つめていたが、そんな彼を気にする観客はもう誰もいなかった。
 格式高いはずのラスト・オーディションは、情熱を燃やし心を凝らして歌うエメルによって最高のライブステージと化したのだった。

「You are not afraid even of how steep course. The faith helps you. And I can climb the steep mountain path」
(それがどんなに険しい道でもあなたは恐れない。固く信じる心があれば、その心は力になるのだから)
「You are not afraid of the big river with the whirlpool so much either. The courage helps you. And I am with you to the other side of the river」
(それが渦巻く大河でもあなたは怯まない。その河を渡る力があなたにはあるの。勇気があなたを対岸へと導くはずよ)

 彼女が声を高めるとそれだけで新たな歓声が沸いた。手を差し伸べると観客席から幾千もの手が応え、風に身を任せるようにステップを踏めばどよめきが起きる。
この会場の何もかもが彼女の思いのままだった。
 目に入る誰もが彼女と気持ちを共にし、笑顔で声援を贈ってくれている。
 エメルは涙が出そうなくらい嬉しかった。

「It is the day when you obtain a dream today」
(今日がきっとその日になるわ。あなたが夢を手にする運命の日)
「You made an effort from that day to today. Nobody was able to do it. I believed it」
(あの日から己を鍛え培ってきたのは、誰にも真似出来ないあなただけの力。私はそれを信じていたの)

 デイブ、聴こえる? この歓声が。この拍手の音が。
 みんなみんな貴方がこれを創ったのよ!

 そして、そんな彼女の思いに呼応したように突然花火が上がり、観客を驚かせ、興奮を更に盛り上げた。
 エメルの顔が輝いた。
 デイブだ! デイブが私の歌を聴いている!
 彼が会場の外から歌のタイミングに合わせて花火を上げているのだ。きっと警備員に追われ、必死に逃げ回りながら打ち上げているのに違いない。
 あの人の耳に、もっと綺麗に聴こえて欲しい。
 その想いに、エメルの歌声は更に高みを目指して美しくなった。

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)

 今まで辿って来た出来事が思い浮かぶ。
 繰り返した数々のレッスン、受けては落ちたオーディション……振り返ればどれも笑顔で思い出せる。
 苦しいことや悲しいことは数限りなくあったが、辛いと思ったことは一度もなかった。

 ――何故って、彼がいつも励ましてくれたから。彼がいつもそばにいてくれたから。

 彼を想い慕う気持ちが、歌姫に奇跡を起こす力までも授けてくれたのだった。
 エメルの胸に溢れる思いは、そのまま歌声になって会場に響き渡る。

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)

 まるで時を得たかのように薄雲に遮られていた陽光が雲間から差し込み、ステージの上でひとつの伝説となった歌姫に、その光を降り注いだ……



次回 第7話「衝撃と栄光と別離 ⑦」


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