若きマルクス、スピノザを読む
あまり知られていないことではあるが、20世紀、もっとも影響力をもった思想家の一人であるカール・マルクスは、スピノザを読んでいた。たんに読んでいたというレベルではなく、マルクスなりにスピノザ思想を自身の血肉にしていたのだと言われている。
『スピノザ異端の系譜』(イルミヤフ・ヨベル)の第二部第四章は、「スピノザとマルクス――自然内在存在としての人間と救済の科学」というタイトルで、次のような書き出しではじまる。
ヨベルによれば、若きマルクスにとって、スピノザ思想は「マルクスの思考に深く根付くと共に生き生きと現前もしていた。それはマルクスにおけるヘーゲルに匹敵しているほど」とのことである。
ヨベルはこうも言う。マルクスにおけるスピノザの現前、影響とは、マルクス自身が直接スピノザの名を口にすることよりも、その思想自体においてみられるのであると。ヨベルはマルクスにおけるこのスピノザの現前を、マルクスの思想の三つの主要領域での再構成を試みる。
すなわち、
⑴ 宗教批判という前段階において。これをマルクスは、スピノザと同様に、しかしそれより限定された条件のもとで、変革の現実的な力であるとみなしていた。
⑵ マルクスが人間と自然の実践的関係を新たな内在的全体と解釈した際の方法において。この方法は人為的な目的論を現実の客観的性質として可能にする余地を開いた。
⑶ マルクスが科学的形態と主張したものにおいて。「救済の科学」としての『資本論』はマルクスの初期の倫理的ヴィジョンにこの形態を与えたものであった。
マルクスが自ら生涯の事業と呼んだ『資本論』は、「人間の解放の目標が「スピノザ主義的」に達成される際のメカニズムを詳細に述べている(ヨベル)」。
スピノザとマルクス。この二人の関係性と研究自体は、フランスで起きた第二のスピノザ・ルネッサンスにおいて、一つの大きな潮流ともなっていた。スピノザをマルクスとの連関の中で読み直そうという動きである。この背景には、六〇年代にアルチュセールらによって進められたマルクスの再読解が大きな役割を果たしていたといわれる(参照:『現代のスビノザ・ルネ ッサンスが意昧するもの』浅野俊哉)。
このアルチュセールの登場以降、スピノザはマルクス主義とのかかわりにおいて世界各国で注目されるようになった。アルチュセールは、「自分の見いだした唯物論の重要な発想がことごとくスピノザの中に書き込まれていたのだという(上野修)」くらいに、スピノザを自身の思想の支柱としていたようだが、それはあくまでもマルクスとの関連、アルチュセール自身が置かれていた政治的文脈の中においてであったのだと思う。
実際にアルチュセールは、「『エチカ』は狭き門だ。『神学政治論』からの方が入りやすい。『神学政治論』がスピノザの『資本論』である」と述べていた(市田良彦)ように、彼の関心はあくまで「政治と歴史」であったのであろう。
私は、世界的に学生運動が熱を持っていた時代(六〇年代)にはまだ生まれていなかったため、学生運動というものがどういったものであったのか、リアリティがないのだが、それでも、私自身が学生だった九〇年代においても、アルチュセールや、たとえば同じようにスピノザを自身の政治思想の支柱として援用するアントニオ・ネグリらの議論は盛んであった。
私が学生だった1997年から2000年においては、アメリカ一国によるグローバリゼーションが推し進められていた時期で、世界資本主義がもたらす格差社会が深刻さを増していた。その反発と抵抗としてイスラム原理主義などが台頭し、2001年には国同時多発テロが発生した。
時を同じくして、思想家の柄谷行人氏は、この世界資本主義を構造的に批判し乗り越えるための理論として、マルクスとカントを援用した『トランスクリティーク』を発表し、来るべき社会に向けての実践の構想として『NAM(New Associationist Movement=ニュー アソシエーショニスト ムーブメント)』を組織化する(この組織はすぐに解散してしまう)。
柄谷行人氏のアクションからもわかるように、九〇年代においても、資本主義システムの欠陥、限界は指摘されており、それを代替するような社会システムが希求されていたのである。そのようなアンチ資本主義、ポスト資本主義、あるいは反帝国主義、反グローバリズムの流れにおいて、改めてマルクスが読まれていたし、ネグリらの革命思想がフューチャーされていたのであった。
私自身は柄谷行人氏の影響もあり、マルクスは少しは読んでいた。少しは、という程度なので、私にマルクスを論じる力も資格もないのだが、それでも柄谷行人氏が、マルクス的にスピノザを読むのではなく、スピノザ的にマルクスを読め、というような趣旨のことをどこかで話していたことが印象に残っている。
柄谷行人氏から派生した私の関心は、スピノザ一択だったので、マルクスもアルチュセールも、あるいはネグリも、あくまでスピノザとの関連性において表面的なものをなぞってきただけにすぎない。しかし当時において、マルクスやアルチュセール、ネグリを論じるうえでは、スピノザへの言及もまた不可分というような感じだったので、それらの議論についてはひととおりチェック、フォローはしてきた。
『革命論―マルチチュードの政治哲学序説』や『存在論的政治: 反乱・主体化・階級闘争』の市田良彦氏はその代表格であるし、マルクス研究者の的場昭弘氏もまた、その一人である。
的場昭弘氏の『もう一つの世界がやってくる』においては、まさにマルクス、スピノザ、ネグリについてが論じられている。的場氏は「スピノザとマルクスのユートピア」という形で、先ほどのヨベルの言葉も引用しながら、マルクスとスピノザの関係性を論じ、二人に共通した「ユートピア」への意志をみている。
マルクスは、この「スピノザの方法」に憧れを持っていた。そしてそれは何よりも、ドイツ哲学において巨塔のごとくそびえたつヘーゲルの理論を乗り超えるためにあった。マルクスの末娘エレーナと深い関係を持っていたリサガレーは、『パリ・コミューン』の中で、マルクスをこう紹介しているのだという。「スピノザの方法を、社会科学に適用している能力のある研究者」と。
的場氏のいう「ユートピア」とは、マルクスにおける「共産主義」、スピノザにおける「神」である。これらは「すべてのことを説明する始原的前提である。ここで語るユートピアはそうした始原的前提に引き寄せられて社会を変革していこうという希望である。その意味でもスピノザとマルクスはきわめて似ている(的場)」のである。
的場氏の考えるスピノザのユートピアは、『エチカ』第五部における、「永遠の相のもとに」神(=自然)を認識すること、を前提としている。
スピノザにおいて、理性的な人間であればあるほど、自由を求める。自由とは、神(=自然)の必然の認識である。自由とは、よりよく生きることでもあるが、このよりよく生きるためには、同時に、他者との和合を前提とする。自由なる人間は、必然的に他者との和合を求め、国家形態を求めるのである。このスピノザにおける、人間の理性知としての自由な生き方に、的場氏はユートピアを見るのである。
しかし、スピノザのユートピア=「神」への認識とその必然の中で生きることは極めて困難な道である。それはスピノザ自身が稀有なことであると言っているのだし、的場氏もこのように結論付けている。
的場氏が言うように、スピノザのユートピアは、いつか実現できるユートピアというものではない。ユートピアという言葉をあてはめること自体に違和感があるくらいに、スピノザは目的的な国家、夢想的な社会とは無縁である。
スピノザが政治を語るとすれば、それは『政治論』においても見られるように、あくまでも現実的な統治の諸形態はどのようにあるべきか、そしてそれは自然の法則、その必然性において実現できるものである、という具体的な方法論(オペレーション)である。スピノザの理性は、実現困難ゆえに「理想」的なものではあるのだが、現実離れした夢想のようなものではなく、あくまで自然の認識から必然的に人間に生じるものでもある。
的場氏もそのことを認識したうえで、こう結論づける。
このような論調は、マルクスの次のような言葉を想起させる。むしろ、この考えを前提とし、スピノザの認識論を読み込んでいるのであろう。
マルクスの有名な言葉である。ここでの共産主義が、的場氏のいうマルクス的なユートピアである。
ただし、世間が誤解しているように、マルクスが新しい社会システムを呼ぶのに、「社会主義」 または「共産主義」という語を使ったのは稀だったようだ。むしろ、「同時代に広く使われていた「アソシエーション〔Assoziation, association〕」という語を使った」のだという(参照:『マルクスのアソシエーション論』(大谷禎之介))。
このマルクスの「アソシエーション」と、スピノザが理論づけた、国家を構成する群衆の力、「マルチチュード(Multitude)」の概念の比較というのも、じつに興味深い論点ではあるが、マルクスを読み込んでおかないとさすがに厳しいだろう。
また、スピノザの「マルチチュード(Multitude)」自体も、この概念を有名にしたネグリにも登場してもらう必要があるが、力尽きたので、本記事はこのあたりで締めたいと思う。いつかの宿題とさせて頂こうと思う。
ここでは、マルクスの思想の源流に、スピノザの存在があったことを示せたことのみでよしとする。アルチュセールは『資本論を読む』の中でこう言っている。
「われわれは哲学的観点から見て、スピノザをマルクスの唯一の直接の先祖とみなすことができるほどである」
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