『ポストマン・ウォー』第1話:町の郵便局
あらすじ
『ポストマン・ウォー』第1話:町の郵便局
指先で一枚ずつ、百枚束のお札をめくりながら、頭の中で数える。
熟練の郵便局員ならこれを、三十秒とかけずに一から百までを数えあげるようだが、新人の中谷幸平にとってはなかなかの至難である。
札束勘定は、局員の誰もが最初に訓練するものではあるが、他にすべき仕事もなく、暇すぎる状況を取り繕うために行う作業でもある。真剣さに欠けてしまうせいか、単調な動作のせいか、一分とも経たぬうちに、睡魔というものが襲ってきて、脳が必死で誘惑を振り払おうとしているのがわかる。その攻防の最中、引き込まれるような眠気を「魔物」に例えるとは、一体どこの誰が思いついたことなのだと、他のことに思いを巡らしてしまうと厄介だ。
八十くらいまでをカウントしたところで、それが八十なのか、それとも七十だったのかが、うやむやになり、何度も数え直しになる。自分の意志に反して、脳の動きは、読み込み停止を繰り返すインターネット動画のように、鈍い。
目を開けたままで見る夢、とはスピノザの『エチカ』第三部に出てくる有名な例えだが、中谷幸平が今置かれている状態は、まさにそれであった。
客がいつ来ても対応できるよう、両目はしっかりと開き、手でお金を数えているにも関わらず、脳はここぞとばかりに休息を取ろうとしている。傍から見れば、起きているのか、寝ているのかは決定不能な状態というわけだ。
なぜ人間のような捕食動物者は眠る必要があるのか。そのことは意外にも現代科学でも解明できていないそうなのだが、この起きているとも眠っているともつかない半覚醒状態は、捕食動物の中でも頂点に立つ人間が、捕食のための狩猟ではなく、さまざまな分業にとって代わった現代において、周囲を欺くために勝ち得た進化の結晶なのではあるまいか。
中谷幸平は、たびたび襲い掛かってくる眠気を払うために、椅子から立ち上がると、二度三度、屈伸をする。背中を伸ばしたり腰を回したりもする。体のあちらこちらが固い。飲食店のような一日中立ち仕事というのはしんどいが、丸一日の座り仕事もそれなりだ。
休憩まで、あとどれくらいだろうか。中谷幸平は客用ロビーの壁に掛かった時計を見る。まだ十一時にもなっていないことがわかり、愕然とする。同じ金融機関でも、きっとウォールストリートの証券取引所で流れている時間と、中谷幸平がたった今実感している時間の濃度には、雲泥の差があることだろう。
開店してから二時間近くが経とうとしているというのに、中谷幸平が担当する郵便窓口には、まだ三人の客しか来ていない。腰の曲がったお婆ちゃんに六十円切手を五枚売ったのが最初、頭にタオルを巻いた土木作業員が持ってきた小包の受付、赤ん坊を抱える若い茶髪の主婦に葉書を一枚、といった具合だ。
都心の駅前や繁華街に位置する店舗であれば、途切れることのない客に追われ、時間を忘れるほどに大忙しであろうが、同じ二十三区といっても、シルバー層が多く、駅からは外れ、商店街の一角に位置する小さな郵便局においては、こんなものであろう。
呼吸を整え、気を取り直すと、中谷幸平は再び札束を手に取り、数える。
それでも、一度睡魔に憑かれてしまった体は、なかなか正常な状態を取り戻せない。目は開いていても、瞬間は眠ってしまっているかのような脳の鈍い感覚が、次第に心地よさに変わっていくのであった。
自動扉が開く音がする。お客か、とチラと見たが、客足はATMコーナーに向かった。「今はこの状態を遮らないでくれ」と心の中で祈っていた中谷幸平は、少し安堵する。
「イラッシャイマセ」ATMの声が遠く薄っすら聞こえ始め、いよいよ深いところまで落ちそうになる。もう、落ちてしまおう。ダメだ、落ちてはならない、いや落ちる。そんな葛藤からなんとか引き返すと、掌から札束がこぼれかけていることに気付き、中谷幸平は慌てて整える。
一連の様子を見られていたか「午後から忙しくなるわよ」と主任の柴田さんが後ろから声をあげる。柴田主任は自席でカタカタと音を立てPCのキーボードを叩いていた。歳は五十を過ぎ、性格が少しきつめの主婦である。
「もうすぐ昼休憩なんだから、ひと踏ん張りよ」柴田主任がカウンターの局員に向かって呼びかける。
局長を覗き、職員わずか五人の小さな郵便局では、昼休憩は二人一組で順番にとることになっていた。一時間ごとなので、新人の中谷幸平に休憩の順番が回ってくるのは、十三時からだった。あと二時間以上も、生産性のない作業で、時間の埋め合わせしなければならないのだ。
ロビーの時計の針が、ようやく十二時ちょうどを指した。最初に休憩をとるのは、貯金と保険担の先輩職員たちである。主任候補の長田さんと、女性職員の高城さんだ。
中谷幸平が勤めるG町第五郵便局は、二階建ての作りになっていて、一階が店舗、二階に休憩室と会議室がある。会議室といっても、そこで会議がされた試しなどなく、ティッシュやボールペンといった客に配布するノベルティの段ボールが山積みとなり、ほとんど倉庫と化している。
昼食を休憩室でとるか、外で食べるかは自由であったが、大抵はコンビニなどで弁当を買ってきて、畳が敷かれた休憩室でゆっくりすることが多い。
先輩職員は、自分たちの持ち場を整理し、カウンターを離れる。その間は、柴田主任が貯金と保険の受付業務を一人で担当する。
「お先、休憩頂きます」
女性社員の高城さんは、ほぼ時間ぴったりに、颯爽と休憩室へ向かう。香水の匂いか、高城さんが動くときは、いつも周囲に甘い匂いを残す。誰が見ても美人の部類に入る高城さんが笑うことは滅多にない。常に冷静な言動、機械的な接客態度から、男子職員の間では「鉄仮面」とあだ名をつけられているそうだ。それを教えてくれたのは主任候補の長田さんだ。長田さんは、十年務めるベテランで、高城さんとは同期だった。
「あれだけの美女だからさ、同期の男連中はみんなアタックしたよ。でもダメだね、誰も相手にされない。他に男いるのか、わからないけどね。なんであんな愛想がないのか、みんなよくわからんのよ」
長田さんは後輩の面倒見がよく、入ってきたばかりの中谷幸平をいちばんよくしてくれている。仕事の辣腕な振る舞いや、人と接する際の丁寧さを見れば、主任候補というのも頷けた。
「休憩入ります」と長田さんも続く。
「ねえ、ワタシ今日も局長の代わりやらなきゃいけないから、午後はカウンター手伝えないからね」
柴田主任が、休憩室に向かおうとした長田さんを呼び止める。
「え、局長は戻ってこないのですか?」
「帰ってくるなんてあてにしていたらダメよ。この前なんかお酒飲んで戻ってきたのよ。信じられる?」
「まあ、偉い人ってそういうものじゃないですかね。午後は自分と高城さんでさばきますんで、大丈夫ですよ」
長田さんは一秒でも時間を無駄にしたくないとばかりに会話を切り上げ、そそくさと休憩室へ向かった。
「ふん」柴田主任は鼻をならす。
何かと理由をつけて不在にしていることが多い局長に対して、柴田主任は相当の不満があるようだ。
「お客さんへの挨拶回りとかなんとかって、どこまで本当なのかしら」と、誰に話しかけるわけでもなくぶつくさ言う。
柴田主任はカウンターへ移動しながら、「峰岸さんも休憩とってくださいね」と、後方の自席で、ふるさと小包のカタログに目を通していた峰岸さんにも声をかける。峰岸さんはもう定年を過ぎていて孫娘もいたが、週に三日くらいは郵便窓口の手伝いをしてくれるパートさんだ。かつては局長代理まで昇りつめたベテラン局員だったそうだ。
「ではでは、お昼頂きます」
峰岸さんはゆっくりと腰を上げる。峰岸さんは膝を悪くしているらしく、歩くのもゆっくりだ。自宅が近所なので、休憩のときは自宅に戻る。
お昼時の店舗は、ATMを利用する客もなく一層静かだった。
カウンターは、柴田主任と中谷幸平だけである。柴田主任も特にやることがないのか、札束を数える作業を繰り返す。その速さは、ベテランの域のもので、中谷幸平に見せつけんばかりに素早く指先を動かす。中谷幸平も札束を数えた。二人してお札を数えているというのが何とも滑稽に思える。
お客は、やって来ない。
札束をめくる、乾いた音だけがロビーに響く。
「嵐の前の静けさよ。こういう日ほど午後にラッシュがくるから」
柴田主任が、中谷幸平の方を向くことなく話しかける。札束を数えたあとは、電卓を使って何やら計算し始めた。
中谷幸平はたびたびロビーの時計を見るが、針が進んでいる気配がない。もちろんそんなことはないのだが、体感での時間の進み方がとてつもなく鈍いのだ。
再び、睡魔がやってきて、中谷幸平の耳元で誘惑し始める。
しばらくすると、物音が一つも立たなくなった。静寂が気になって、柴田主任を振り返ると、柴田主任は頭を横に大きく動かし、寝入っていた。
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全部で14万字近くあります(汗) 少し長いですが、順次アップしていきますので、最後までお付き合いいただけますと幸いです!
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