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『ポストマン・ウォー』第39話:密談と巨大組織
『ポストマン・ウォー』第39話:密談と巨大組織
「お前から飲みたいって珍しいな」
江原さんがそう言って、中谷幸平のグラスにビールを注ぐ。普段では絶対に行かないであろう、日本料理屋の個室に江原さんと二人きり向き合っている。まるでテレビドラマでよくみる密談のようだと思った。
九月に入り、二週目の火曜日だった。中谷幸平の方から電話して懇願した。
「組合活動に興味があるんです。江原さんならもっと深いこと教えてもらえると思って」
思いきってそんな風に伝えた。
「了解。店用意しておくから、いつでもいいよ」と江原さんは言った。それで約束したのがこの日だった。
「で、組合の何が知りたいのかな。中谷君」
江原さんはドラマの俳優のような口調で言う。
「まあ、冗談、冗談。いつものように飲もうよ」
江原さんは笑いながら中谷幸平とグラスを合わせる。
「こんなことお伺いするのは今さらって思われるかもですが」
「おお、なになに」江原さんは中谷幸平の言葉を待っている。
「その、労働組合なんですが、組合ってどれくらいの力があるんですか?」
「力?」江原さんは少し怪訝そうに眉を潜める。
「いや、なんというかネットワークというか、規模というか、組織力ってやっぱすごいんですよね?」
中谷幸平は言葉を選びながら尋ねる。
すると江原さんは、フンと鼻で笑う。
「何だよそれ、確かに今さらだな」江原さんは少し苦笑いする。
稚拙な質問に機嫌を損ねてしまったか、最初の料理が運ばれてくると、江原さんはそれを黙って食べ続けた。
江原さんが再び口を開いたのは日本酒を飲み始めてからであった。
「急にどうした。中谷君。これまでは先輩に付き合わされて、なんとなくやっていた感じだったろうに」
「はい、正直に言いますとそうです」中谷幸平は素直に答える。
「コミットしたくなったのか?」
江原さんに言われ、中谷幸平はコクリと頷く。
「そこまで踏み込みたくなった理由は何よ? 組合は形だけじゃできないぞ」
「はい、単刀直入に言うと、もっと世の中を変えていける力を持ちたいんです。郵便局員として一人の存在って無力だなって。でも自分が、例の事件をやらかしてしまった時に、江原さんに助けられました。異動でもおかしくなかったのに、江原さんは自分を救ってくれました。その江原さんが持っている力に、興味があるんです」
「それは組合の力だよ。俺の力ではない」
「その組合なら、もっといろんな活動があるのかなと思って、そこに興味を持ってます」
すると江原さんは、ようやく話す気になったか、少し姿勢を正し、前のめりになった。
「お前らには総会とかレクリエーションに出てもらっているけどさ、あれはほんの表面的な活動なワケよ」
「はい、そんな気がしまして。江原さんはもっと違う活動をされているんですよね」
「そもそもさ、日本の労働組合って、どれくらいの規模かわかる?」
江原さんに訊かれ、中谷幸平はわかりませんと首を傾げる。
「まあ、人数にしてみれば一千万弱だな。日本の人口の十分の一」
「そんなに?」
中谷幸平は、想像以上の規模感に唾を呑み込む。
四、五人程度の職場環境。客の相手も数十人規模の範囲にしかいない中谷幸平には、とても実態が掴めそうにない。
「俺たちは、全部繋がっている」
「全部?ですか」
「ああ。郵政だけじゃないんだ。医療、食品、自動車、生保、電力、ガス、鉄道、運輸、航空、建設、教育、映画演劇。ありとあらゆる日本の産業、業界で組合は繋がってるよ」
「あらゆる日本の産業」中谷幸平はそれもピンと来ない。
「とはいえ、組合の中でも派閥はあってな。全部が全部、同志ってわけではない。ただ、俺たちの同志だけでも、お前が言う、世界を変える力?それには、実は十分な規模ではある。そういう思いでやっている連中が多いのは確かだよ」
「組合というのは、左翼とはまた違うんですか?」
「組合は左翼か?か。一部の連中のせいでそんなイメージもつけられてしまっているけどな。まあ、そんな単純なものではないさ。長くなるから今日は話さないけど、労働組合って一言でいってもいろんな歴史があるわけだ」
江原さんは、徳利が空いたのを見て、酒を追加するために店員を呼び出す。
「俺たち労働者は、左翼と呼ばれようが何でもいいが、ある理念で繋がっている。その理念はインターナショナルで、世界共通なんだ。お前にそういう話をしてわかるかな?」
江原さんは中谷幸平を試すように話す。
「マルクスとかそういう話ですか?」
「おお、流石、大卒。わかってるじゃねえか」
江原さんが感心したように大きく頷く。
「ただ、ごめん。俺はそこ、専門じゃないので、今日話せることはない。一つ言えるのは、この世界で最も巨大なシステムや権力との戦い。それが俺たちの動機だ」
「資本主義と国家、ですかね」
「何だよ、お前、話が早そうじゃないか」
江原さんはそう言って大きな口を開けて笑った。
こんな会話を、これまでの付き合いの中では一切したことがない。
深いところに足を踏み入れてしまったかという思いが、中谷幸平にはあった。
中谷幸平は、自分がこれまで親しんできた文学、カリスマ批評家らの影響もあり、むしろそういう話は望むところではあった。
ただ、自分には「リアル」がない。
マルクス、運動、資本主義への対抗、学生時代から言論ではずっと耳にしてきた言葉だが、自分がこれまで過ごしてきた体験と何一つクロスしないのだ。だからこそ、身近にあった労働組合の、中核にいると思われる江原さんの話を聞きたかった。
「俺たちはその対抗措置としてあるわけだな。資本主義や国家の搾取から、自分たちの手で自分が働く環境と労働者全員の生活を守る必要がある」
江原さんはそこまで話すと「やっぱ小難しい話はいい」と言って、話を中断した。
中谷幸平は食い下がるまいと色々と質問をするが、どれもはぐらかすような回答ばかりであった。
江原さんは日本酒をひたすら飲んでいて機嫌が良くなってきたか。
「お前はまず、そこに興味を持ってくれただけで俺は嬉しい」と繰り返す。
江原さんとその店で、二時間ほど経った頃、江原さんが会わせたい奴がいると言って呼び出した人間は、なんと篠崎絵里であった。
江原さんの元カノであり、組合の総会で中谷幸平を誑かせた、篠崎絵里がなぜか、江原さんとで飲んでいた店に突如現れたのである。
「ごめん、俺が呼び出したんだ」
江原さんはそう言って、自分の隣に篠崎絵里を座らせる。
支部大会以来であった中谷幸平は、気まずそうに会釈する。
篠崎絵里は、そんな素振りもなく、初めて会ったころのような陽気さで入ってくる。
「エリ、やっぱこいつ、俺の見込んだ通りだったよ」
江原さんが酔った声で篠崎絵里に肩を寄せながら話す。
「うんうん、そうなんだ」
篠崎絵里はニコニコしながら返す。
見込んだ通り? なんのことだ、と思いながら中谷幸平は急にテンションが上がっている江原さんを、つい怪訝な目で見てしまった。
「こいつは、組合にコミットしてくれるみたいなんだ。俺、お前に言ってたよな。中谷君は素質がありそうだって」
「中谷君。組合にそんなに興味持ってくれたんだ?」
篠崎絵里が中谷幸平を見つめる。
「はい。少しでも力になりたいなと」
さっきまでの江原さんとの緊張感あるやり取りはどこへやら、しばらく、三人で俗っぽい話が続いた。やはり江原さんはこういうノリの方が好きなのかと、中谷幸平が思っていた頃、江原さんが唐突に話題を切り替えてきた。
いや、中谷幸平にしてみれば、そのために江原さんの力を借りることができまいかと思っていたところではあった。しかし、そのことを江原さんから口にしてくるのは、なぜだろうと思ったし、奇妙であった。
「中谷君。さっき、資本主義がどうのって大きな話をしていたけどさ、俺の視点で行くとさ、まずは俺らの管轄であるK町やG町含めた、東東京エリアの平和が当面の目的なのよ。どうすれば東東京支部がよりよく発展し、そこで働く人間が幸せに暮らせるか。俺はそればかり考えている」
江原さんはだいぶ酔ってきたか、上機嫌に話す。
「今、俺たちがいちばん頭を悩ませていること、何かわかる?」
「郵政民営化の件でしょうか」
中谷幸平はそれらしいことを答えたつもりだった。
「それも重要だけど、違う」
江原さんの声のトーンが低くなる。
「中国マフィアだ」
「中国?」
なぜ、ここで中国マフィアの話が?
「こいつらが、東東京に進出してきてからさ、色々大変なのよ」
まさか、江原さんはG町の夜の世界で進行している出来事を知っているのだろうか。
しかし、中谷幸平からは深入りできなかった。途端、酔いが一気に覚め、緊張が走った。
江原さんはさらに、何かを見透かしているようなことを口にする。
「力になるよ。お前に何があっても、俺たちは力になる。その力を、お前は信じろ」
篠崎絵里が「そうよ、大丈夫」と言うような目で見てくるのが癪に障った。
「この組合のネットワークで何ができると思う? ありったけの想像力を膨らませてみてくれよ、中谷君」
「ありったけの想像力って」
「何でもいい。このネットワークと俺たちがすでに持っている国家インフラを使って、物理的にできる全てのことだ」
江原さんの目が、豹変しているように見えた。『カササギ』で一緒にバカ騒ぎしていた時の兄貴分としての目ではない。何か大きなことを企み、未来を見据えている。
変革を希求している人間の目だ。
「いいか、中谷君。『思うことは実現できる』『念じることは力である』これは、俺たち組合の合言葉のようなものだ。君もいい大学出ている有望な人材だ。自分一人の力でできることを考えるのではなく、国家単位の組織規模を踏まえての想像力を働かせてみろ。そして、それは実現できるから」
「『思いは実現する』」
中谷幸平は、覚えたての言葉のように、繰り返し唱えた。
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