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『ポストマン・ウォー』第8話:旧友


『ポストマン・ウォー』第8話:旧友


 八月まで、あっという間に時間は過ぎていった。世間では盆休みに入る時期だから、G町第五郵便局の客の入りもまばらになった。繁忙期は局内もぴりぴりしているが、一時間に数人しか客が来ない日にあっては、局員の心の余裕は違う。何より、普段からイライラしている柴田主任が、終始穏やかなのである。柴田主任の機嫌がよければ、局内の雰囲気も家族での団欒のように明るくなる。

 最近ゴルフを始めたという杉山局長と長田さんは、史上最年少でグランドスラムを達成したタイガーウッズのことばかりを話題にしている。柴田主任もその話に乗って「ゴルフはお金かけないとうまくならないんですよね」などと言う。

「柴田主任ゴルフやるんですか?」杉山局長が目を丸くして聞く。

「ええ、若かった頃ですけどね。杉山局長のお父様とも一緒にコースまわっていましたよ」

「へー、それは知らなかったですね。どうです、今度行きませんか」

「私はもう体動きませんから」そう言って柴田主任は大笑いする。
 
 中谷幸平は、会話には入らず黙々と、切手の在庫を数えていた。同じように鉄仮面こと高城さんも、お札の束を小さな手に持ちながら、何度も何度も数えている。
 
 もうすぐ夏休みかと、中谷幸平はぼんやりと考える。特にどこへ行くわけでもなかったから、休みの時くらいは顔を出してよという母親の言うように、実家に戻ろうかと思った。人数の少ない特定郵便局では、夏季休暇も順番に五日間くらいをとるのだが、中谷幸平はちょうど盆の週にとることになった。
 
 仕事が暇だと、当然、帰宅できる時間も早かった。民間で働くサラリーマンの事情はわからなかったが、定時の十七時半にあがれるなどという職場は少なそうだ。
 
 日も落ちかけていたが、外はまだ蒸し暑かった。日中の、気が狂うような暑さのせいか蝉の死骸が舗道の隅にいくつも転がっていた。日の光を浴び続けていたアスファルトは、焦げ付いた匂いを発している。
 
 駅前に着くと、中谷幸平はいつもの通り喫煙所に立ち寄る。書店に寄り道するか、まっすぐ家に帰るかで迷っていると、携帯の着信音が鳴った。もしかしたら遠藤桃子かとも思ったが、見ると大学時代からの友人である夏川元からであった。

「コウヘイ元気かい、久しぶり」懐かしい声が聞こえてきた。

「おお、だいぶ久しぶりだね。ハジメは元気そうだな」

「はは、まあ、ぼちぼちだな」

「どうした、急に」

「今日仕事も早く終わったからさ、久しぶりに飯行こうよ。お前も定時であがってるんだろう?」

「まあね。今日はたまたまだけどな。よいよ、どこへ行けばいい」

「六本木来れないか。フライデーズっていうレストラン分かるだろう?」

「おお、分かった。これから向かうよ」
 
 夏川とは、大学時代の仲間同士での卒業旅行以来会っていない。付き合いは十九の頃からで、学部は違ったが、学校近くのカラオケ屋のバイトで知り合い、意気投合するようになった。そこから夏川の知り合い、中谷幸平の知り合いがつながり、いつも五人か六人かのグループでつるむようになっていた。
 
 夏川は在学中に司法試験に受かり、誰もがそのまま弁護士になるのだろうと思っていたのに、法曹界へ行くことを拒否し、なぜか外資の戦略系コンサル会社に就職したのであった。就職後も何度か、同級生グループで会う約束をしていたが、社会人にもなると皆の予定が一致せず、約束はまだ果たせていない。
 
 六本木自体は久しぶりだった。ゼミの先輩に連れられ、クラブに行ったことがあったが、その程度だった。初めて六本木に降り立った時、多感な大学生には、六本木は異国のようにも思えたし、魔都という表現がぴったりな街だと思えたものだ。
 
 待ち合わせの店に到着するのと丁度に、夏川からのメールがあった。「ごめん、あと十分。先に入って待っていてくれ」とのことだった。

「いらっしゃいませ」若い女性店員が出迎える。
 
 二階の窓際の席を案内される。車と人がせわしなく往来する外苑東通りを見下ろすことができた。ハイネケンを頼み、夏川が来るのを待つことにした。
 
 学生の頃から、約束の時間から待たされるのは中谷幸平の方だった。それはいつものことだった、と中谷幸平は思う。
 
 あの頃は、こんな洒落た洋風の店なんかではなく、脱サラした中年男性が一人で営む、校舎近くの喫茶店であった。
 
 その時のことを、中谷幸平は昨日のことのようにありありと思いだす。
 
 法学部の夏川と教育学部の中谷幸平では、授業が終わる時間帯は異なる。待ち合わせする時は、早く終わった方が先に店に入ると決めていた。中谷幸平は授業をさぼって、図書館に籠るのがほとんどであったから、先に店で待つのは、いつも中谷幸平の方だった。

   *

「わりい、わりい、待たせちゃったな」そう言って、夏川は少し申し訳なさそうな顔でやって来て、アイスコーヒーを頼む。飲むのはいつもコーヒーと決まっていた。

「法学部は大変そうだな」中谷幸平は待っている間に読んでいた本を閉じテーブルの隅に置く。

「何の本?」夏川はくしゃくしゃになったマルボロの箱を手に取り、煙草に火を点ける。

「ガルシア・マルケスの『百年の孤独』」

「六法全書みたいに分厚い本だな」

「読むのに難儀してるよ」

「ところでさ、来週、R大学の女たちとコンパがあるんだけど、コウヘイ来れないか?」夏川はそう言って、煙を大きく吸い込んだあとに、大きく吐く。夏川の額が汗ばんでいた。

「いや、やめとくわ」中谷幸平は指に挟んだ煙草から出る煙を手で払いながら言う。

「何だよ、最近付き合い悪いな」

「言ったじゃん、今、こう見えてやることたくさんあって忙しいんだよ」

「あれか、小説書いてるんだっけ?」

「まあね」中谷幸平は少し照れながら、煙を吐く。

「ちょっとこれ見てくれ」そう言って中谷幸平はバッグから、夏川に見せようと思っていたものを取り出す。自分で書き始めた小説の原稿だった。夏川はそれを受け取り、口先で煙草を咥えながら、原稿をめくっていく。

「何これ、何て読むんだ?」

「ああ、タイトルのことね。『あかいしゅろ』」

「ふーん、どんな話なの?」

「何だよ、読んでくれないのか?」

「こういうのはさ、お前がデビューした時に楽しみをとっておきたいじゃんよ」

「ふん、めんどくさいだけだろ。返せ」そう言って中谷幸平は夏川から原稿を取り戻す。夏川は大笑いする。

「でもあれだな、ついこの間まではコンパだ、女だなんて一緒にバカやってたのにさ、文学に目覚めちまうって。なんか、お前だけ遠くにいっちまったみたいだな」

「そんなことはないよ。でも、お前らも何か夢中になれるもの見つけろよ。学生時代はあっという間だぜ」

「へ、ずいぶん上から目線だな。まあ、返す言葉もないけどな」

 夏川は、煙を大きく吐くと、アイスコーヒーをごくごくと音を立てて飲んだ。

   *
 
 そんな日のことを思い返しているうちに、ハイネケンが運ばれてきて、中谷幸平の物思いは遮られる。暑かったこともあり、喉の音を立てながら勢いよく飲んだ。そこに、夏川がひょこっと姿をあらわした。

「わりい、わりい、待たせちゃったな」
 
 変わってないなと、中谷幸平は思わず苦笑する。ただ、身形が大きく変わっていた。いかにも「できるビジネスマン」といったようなパリッとしたスーツに磨かれて光った革靴。パーマをかけていた髪も、てかてかに整髪料を塗りたくったオールバックになっていた。
 
 夏川は腹が減ったといい、ビッグサイズのハンバーガーとフライドオニオン、ポテトと次々と料理を頼む。飲み物はバドワイザーを二つ頼み、改めて乾杯をする。

「いやあ、ほんと久しぶりだな」夏川は嬉しそうに話す。
 
 中谷幸平は煙草を指に挟み、ライターで火を点ける。夏川も同じことをすると思っていたが、マルボロの箱を取り出す気配はなかった。

「あれ、煙草は吸わないのか?」中谷幸平が訊く。

「ああ、もう止めたよ。今時、煙草吸っていたら仕事ができない奴って思われる」夏川はしたたり顔で中谷幸平を見る。

「新卒なのに、ずいぶんと稼いでそうだな」

「お、わかる?」

「まあ、身につけてるもん見れば」中谷幸平がそう言うと、夏川は左腕にしていたフランクミュラーの時計に目を移す。

「俺の給料の何か月分なんだろうな」中谷幸平は溜息をつくように煙を吐く。

「ところで、お前、郵便局はどうなのよ」

「や、ぼちぼちやってるよ。楽しいかどうかは別にして」

「そうか。公務員ってのも大変そうだな。そうえいば、書くことはやめちまったのか?」 

 夏川は、ハンバーガーがくると「うまそー」と小声で言い、口を大きく開けてかぶりついた。ハリウッドの映画でよく見るエリートビジネスマンのように、その姿も様になっている。

「いや、何とかやろうとはしているよ」

「お前、昔言っていたよな。文学はもう終わったから、これからは社会活動や政治運動だとかなんとかって。文学じゃ世界は変えられない、だから小説はもう書かないって。カリスマ批評家がそういう社会運動の団体作ったんだったっけ?そっちの方はどうなったんだ」

「いや、あれは書けないことの言い訳だな。少しは惹かれたけど、結局何もしてないよ」

「なんだ、やってないのか。書いているならいいけど」

「いや、中途半端だよ、全部」中谷幸平はぶっきらぼうに言う。あまり触れられたくない話題であった。

「ハジメはなんで弁護士の道を選ばなかったのさ。安泰だっただろうに」中谷幸平は話題を逸らす。
 
 夏川はケチャップがついた親指を舐めてから、「司法試験に合格するだろう。そのあと実務研修ってのがあって、それを一年みっちりやって、初めて弁護士資格がもらえるんだけどさ」と言う。

「それで?」中谷幸平は頷きながら訊く。

「初日で辞退した」夏川はあっけらかんと笑った。

「なんでだよ」中谷幸平も思わず笑い返す。

「なんていうかさ、俺、仕事ってもっとワクワクするものだと思っていたワケ。学生時代に起業しているやつらとか見ていたからさ、そいつらが羨ましかったんだろうね。弁護士は立派な仕事だし、法の歴史は奥深いけど、初日で感じちゃったんだ。俺がやりたいことはこれじゃないって。事務局の人にも、もう少し我慢したら?って説得されたけど、もういいですって帰っちゃった」

「で、コンサル会社であればお前がやりたかったことができるのか?」

「コンサルはあくまで手段かな。やりたいことを実現するための地ならしみたいなもんよ」

「そこに就職すること自体が凄いことなんだけどな」

「コンサルのスキルはどこ行っても通用するからな。そこが魅力なのよ」

「どこでも通用するスキルか」中谷幸平は首を傾げる。

「コンサルで身につく三つの力があってさ。一つ目は問題解決能力。それからグローバルで通用するコミュニケーション力。最後にどんな状況も耐えうる精神力」
 
 夏川は指を一、二、三と順に突き出しながら語る。

「ほう」中谷幸平は頷くしかなかった。

「まずはこの力を身につける。そして事業戦略や経営についても学んでいく中で、行く行くは自分の会社を立ち上げる。それが俺の目指すところかな」

「なるほど、起業か。それがお前の目指すところなんだな」中谷幸平は夏川が語る言葉に動揺を覚えた。気後れのような、嫉妬のような。とにかく、夏川の存在が急に遠くへ行ってしまったかのような感じである。

「俺が、お前のことどうのこうの、言うことはできないけどさ、郵便局で働いていて、何か変わるのか、世界は」急に夏川の視線が鋭くなった。

「それは無理だよ。自分の生活を支えるのがせいぜいだな」中谷幸平は溜息をつく。

「うちの会社ではさ、コンサルの仕事からNGOとか国連の職員に転身する先輩とかもいるみたいだぜ」

「国連?なんでまた」

「さっきの三つの力だよ。NGOや国連の仕事って貧困とか紛争とか、環境とか、社会課題の解決だろう。これらを解決するうえで、コンサルで培った力が活きるんだろうね。高給を捨てて、そういう自分の信念のために飛び出していく人もいるみたいなんだ」

「なるほどな」

「お前も世界を変えたい云々言っていたからさ、そういうこと目指しているんじゃないの?って思ったんだよな。そういう理念とか持っている人間って、意外と少ないんだよ」

「俺はもう、そんな大そうなこと考えてないって」中谷幸平は夏川の視線から目を逸らす。

「いいのかよ。今の仕事で。それともペンで変えるか?でも、書いていないんだろう?」
 
 妙に説教臭くなってきた夏川の話に、中谷幸平は少しうんざりし始める。

「まあいいや、そんな堅苦しい話はやめようか」

 夏川は、話に乗ってこない中谷幸平を思ってか、無理やり話題を切り替えようとした。
 
 同級生グループの連中が今、それぞれどんな仕事をしているか、最近ナンパした女の話だとか、学生時代のような他愛もない話で、時間は過ぎていった。
 
 フライデーズで二時間くらい経っただろうか。夏川は次の約束があると言って、店の前で別れることになった。

「何だよ、俺はただのつなぎか」中谷幸平は苦笑する。

「そんなんじゃないよ、会えて楽しかったよ。今度はみんなで飲もうぜ」

 そう言って夏川は右手を挙げ、タクシーを停めると、颯爽と乗り込み、東京タワーが見える方角へ行ってしまった。


 

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